雁田山の麓に並ぶ岩松院の堂と、長野県の形を水色で重ねたアイキャッチ

栗と扇状地の町 小布施(長野県)の果樹と暮らし【水と地域文化】

長野県の北東部、善光寺平(長野盆地)の東の縁に、上高井郡小布施町(おぶせまち)があります。町の景観計画によると、周りを松川・千曲川・篠井川の三つの川と雁田山(かりたやま)に囲まれた、面積19.12平方キロの長野県でいちばん小さな町です。

小布施は栗の町として知られてきました。町の公式サイトは、松川の水が酸性で米づくりに向かなかったことが栗の栽培の始まりにつながったと書いています。栗は室町時代にはすでに栽培されていたと言われ、江戸時代には幕府への献上栗とされました。

その一方で、町の農業の主役は時代とともに変わってきました。明治の製糸、昭和の恐慌のあとのりんご、1970年代からの巨峰・もも・栗という果樹の多角化です。地理学者の内山幸久(2017)は、小布施町の果樹生産の移り変わりを統計と土地利用図から追っています。

この地域の水(要約)

緑の草原と林の間を、赤茶色の石が並ぶ川床の上を白く波立って流れる川
沖渡橋から下流側を見た松川(高山村・2012年7月)。川床の石が赤茶色に染まっている(写真:Qurren/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

詳しくは「この地域の水」へ

長野県の中の小布施町の位置を示した地図。県の北東部、長野市の東にある
長野県の中の小布施町の位置(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」、国土交通省「国土数値情報(行政区域)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

この記事の資料について

小布施の扇状地と果樹は、地理学の研究が長く積み重ねられてきた題材でもあります。内山(1972)、青木広安(1977)、小林秀世(1985)、吉田和義(1987)、中島峰広(1994)らが、りんごの産地の組織、果樹の多角化、扇状地の土地利用、千曲川の岸の地割、畑の灌漑を調べてきました。

この記事は、小布施町や長野県、国の公開資料と、無料で読める研究論文・研究発表の要旨だけをもとに書いています。研究の論点は「誰が、何を指摘したか」の形で示し、資料で確かめられなかったことは、そのつど「確かめられなかった」と書きます。

松川がつくった扇状地――地形と立地

四方を川と山に囲まれた町

景観計画によると、小布施町は標高786.7メートルの雁田山を除くと、標高およそ300〜400メートルで、北西に向かって緩やかに傾く土地です。町の西を千曲川が北へ流れ、南の端を松川、北の端を篠井川が流れています。町内からは斑尾山・妙高山・黒姫山・戸隠連山・飯綱山の「北信五岳」を見渡せると計画は書いています。

気候は内陸性で寒暖の差が激しく、年間降水量は1,000ミリ以下と全国的に見ても少ない寡雨の気候です。小布施町内には気象庁の観測点がないため、近くの長野地方気象台(長野市)の平年値(1991〜2020年)を見ると、年降水量は965.1ミリ、年平均気温は12.3度です。

小さな町の夜の気温を詳しく測った研究もあります。榊原保志・中川清隆(2011)は、2003年3月から2005年5月にかけて、風の弱い夜に小布施町の市街地と周辺で係留気球による観測を180回行い、日没後に地表付近の気温の逆転層が農村側ではすぐに発達し、市街地側では遅れて発達することを報告しました。

広い河原の中を流れる松川と砂利の中州、奥に連なる山々
須坂市と小布施町の境に架かる大豊橋から上流を見た松川。広い河原に砂利の中州ができている(写真:Triglav/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

酸性の水と礫の土

小布施町の公式サイトは、町の土台を「松川によりつくられた扇状地」と書いています。松川が長い年月に氾濫を繰り返すことで扇状地ができ、その水は酸性が強く、米を育てるには向かない水質でした。景観計画は、特有の気候と扇状地の酸性の礫質土壌が、りんごやぶどうなどの果物と、色合いや風味に秀でた栗を産み出していると書いています。

内山(2017)も、小布施町の南を西へ流れる松川を「弱酸性河川」と呼び、町域は松川がつくった小布施扇状地の上と盆地の底、千曲川と松川の自然堤防の上、そして川の堤外地に広がっていると整理しています。

千両堤が開いた土地

町の公式サイトによると、戦国時代の末から江戸時代の初めにかけて、松川で大規模な築堤事業が行われました。それまでの松川は町の中心部を通って北西側(いまの松村・六川・中条・清水の自治会のあたり)へ流れ、たびたび氾濫していました。町の南東部に「千両堤」が築かれて松川がいまの流路に変わり、氾濫が大きく減ったことで、それまで荒地だった土地に新しい可能性が生まれたといいます。

谷街道・谷脇街道・千曲川など、新潟方面と関東を結ぶ道の結節点だったことも、その動きを後押ししました。17世紀の初めには谷街道沿いに上町・東町・中町・横町・伊勢町などの新しい村がつくられ、いまも「町組(まちぐみ)」と呼ばれるこの一帯が、町の商業の中心になっています。

小布施町の中心部の町役場・北斎館と、雁田山麓の岩松院の位置を、千曲川・松川・篠井川とともに示した地図
小布施町の中心部と松川・千曲川・雁田山の位置関係(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

扇状地の上の集落の形

景観計画は、小布施の「まち」と「集落」が松川扇状地の地形と深く結びついてできてきたと書いています。道路は扇状地の放射状の尾根に沿い、水路と一体になっています。

集落の規模によって道沿いに家が並ぶ「街村」「路村」に分かれ、扇状地の端の集落は形が不規則な「塊村」、林地区は家が散らばる「散村」に区分されます。福原・大島・六川・矢島などの近世の新田集落は、町組の中心から放射状にのびる道に沿って家が並ぶ路村の形だといいます。

内山(2017)は、町の南西部の大島集落を例に、扇状地の傾きを数字で示しました。集落の東端の寺院(玄照寺)付近が海抜約356メートル、西端の神社(大島神社)付近の扇端部が約334メートルで、その間を約1度の傾きで下っていきます。松川と千曲川に挟まれた堤外地の耕地は、海抜332〜333メートルの平坦地です。

緑の葉の間で枝についた、とげに覆われた若い栗のいが
枝についた若い栗のいが(他地域の参考写真)。小布施の栗は室町時代から栽培されていたと伝えられる(写真:Apple2000/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

栗の町の生業

室町から伝わる栗と献上栗

町の公式サイトによると、小布施栗はいまの林(はやし)自治会を中心に生産され、江戸時代には幕府への献上栗として守られました。江戸時代の末にはさまざまな加工方法が開発され、多くの栗菓子屋が生まれたといいます。

内山(2017)は、近世の小布施では米や麦、養蚕のほかに栗の生産が行われ、栗は松代真田藩などによって徳川将軍への献上品にも使われていたと書いています。小布施の栗は18世紀にはすでに栽培されていた、というのが内山の整理です。

赤い網の袋にたくさん詰められて棚に並ぶ栗の実
赤い網の袋に詰めて並べられた小布施の栗(2011年9月・上信越自動車道の小布施パーキングエリアでの販売)(写真:黒ゆり/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

山林の栗から園地の栗へ

栗の木は、もとは山林の地目で育てられていました。内山(2017)によると、第二次世界大戦後にその地目も農地解放の対象になったため、栗の木を伐ってより生産性の高いりんご園にしたり、普通の畑作物をつくったりする所有者が出ました。

栗が再び増えたのは、高度経済成長期以降です。内山は、栗羊羹・栗鹿子・栗落雁などの和菓子やマロングラッセなどの洋菓子の需要が伸びたこと、栗は手をかけずに育てられる(粗放な生産ができる)ことから、労働力不足に悩む農家にとって都合のよい果樹とされ、栗園が増えてきたと書いています。

長野農政事務所統計部の資料によると、小布施町の栗園は1989年に50ヘクタール、2003年に70ヘクタールを超え、2006年に74ヘクタールになりました。ただし単位面積あたりの収穫量は少なく、2006年の収穫量は236トンです。内山は、町で収穫・販売される栗のほとんどが町内の栗の加工業者へ出荷され、生の栗として出荷されるものはほとんどないと書いています。

ほかの土地の栗との比べ方

栗の産地の研究は、小布施のほかにもあります。地理学者の元木靖(1969)は茨城県の栗栽培地域を調べ、丹波系の栗の栽培が1898年から広がり、1964年には栽培面積で全国の16.9パーセント、収穫量で16.0パーセントを占める全国一の産地になったこと、栗畑は火山灰に覆われた洪積台地にあり、その多くが山林や畑から転換されたことを報告しました。酸性の扇状地の栗と、台地の栗という違いがあります。

民俗学の側では、栗を「食べもの」と「材」の両方から見る研究があります。門口実代(2011)は山形県小国町で、昭和20年代まで集落の周りにクリ林があり、集落の共有林と家ごとの私有林が並び立ち、果実の利用と用材の利用を二つの柱として使い分けていたことを聞き取りから明らかにしました。

加藤享子(2021)は、富山県の小矢部川上流の山村で、1950年代半ばにも栗が自給の暮らしの一部だったことを記録しています。茹でて干し糸に通す「じゅずぐり」は長く保存でき、贈りものにもされ、砂に埋めて春まで食べる「すなぐり」もありました。

栗は浄土真宗の儀礼や年中行事、お茶請けにも使われ、集落どうしのやりとりに欠かせなかったといいます。小布施で同じような食べ方があったかは、今回の資料では確かめられませんでした。

年輪の見える四角い木の角材が小石の目地をはさんで並ぶ舗道
栗の木の角材を敷き並べた「栗の小径」の舗装(2012年1月)(写真:Tawashi2006/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

栗の木を道に使う――栗の小径

栗は実だけでなく木も使われています。景観計画によると、1980年代に高井鴻山記念館や北斎館の周辺で「町並修景事業」が始まり、「栗の小径」など、いまの小布施町を象徴する空間の一つがつくられました。栗の小径は、栗の木の角材を敷き並べた舗道です。

雪の積もった畑に、太い幹のりんごの木が間をあけて並ぶ冬の果樹園
雪の積もった小布施町のりんご園。幹の太い木が間をあけて並ぶ(2023年2月)(写真:Asturio Cantabrio/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

桑からりんご、そして多くの果樹へ

養蚕とりんごの交代

明治の小布施は製糸の町でもありました。町の公式サイトによると、1873年に高井郡で初めての製糸工場「雁田製糸工場」が創業し、1878年まで郡内の生糸生産で1位でした。その後、須坂での製糸業の急速な発展で地位を明け渡し、六斎市など町の商業を支えた市も次第に衰えていったといいます。

内山(2017)によると、小布施町でりんごの生産が始まったのは長野県の資料で1907年で、長野盆地の他の市町村に比べて遅い方でした。当時は養蚕が盛んで、畑には桑園が多かったのです。1929年に始まった昭和恐慌で養蚕が大打撃を受けると桑園がりんご園に変わり、旧都住村と合併する前の旧小布施村では1939年にりんご園が125ヘクタールに達しました。

長野盆地全体についても、同じ流れが指摘されています。青木広安(1977)は、盆地のりんご作が1879年に長野町にあった県の勧業試作場が篤志家に苗木を配ったことに始まるものの、明治年代には養蚕の隆盛に押されて伸びず、1930年の恐慌を機に養蚕に代わる商品作物として広まったと書いています。

小林秀世(1985)も、松川扇状地では1890年代からの養蚕の発展で普通畑が桑畑に変わり、1930年代の経済危機以降、利益のよいりんご園へ移っていったと整理しました。

共同の仕組みと、りんごの全盛

戦後、りんごは急速に増えました。内山(2017)によると、小布施町のりんご園は1948年の149ヘクタールから1959年の614ヘクタールへ増え、1968年まで610ヘクタール余りで推移しました。収穫量は1958年に1万2,000トンを超え、1968年には過去最高の1万6,652トンに達しています。

増産を支えたのは共同の仕組みでした。内山(1972)は長野盆地のりんご産業を調べ、各農家の経営規模は小さく、部落(集落)単位で共同防除組合と、干害に備える共同灌水組合が、また部落や旧市町村単位で共同出荷組合がつくられ、その上に農協、さらに経済連・信連が重なる階層の構成を示しました。

内山(2017)は、1956年に長野県須坂園芸試験場で国産のスピードスプレヤー(薬剤を散布する機械)の試験が行われると、小布施町押羽(おしば)集落の有志が共同防除組合をつくってこれを共同購入し、これを契機に長野盆地の各地にスピードスプレヤーによる共同防除が広がったと書いています。

巨峰・もも・栗へ――果樹の多角化

1960年代に果物の輸入自由化が進み、全国でりんごが増えて市場価格が低迷しはじめました。内山(2017)によると、小布施町では1965年に旧小布施農協と旧都住農協が合併し、1970年には町うまいくだもの実践本部がつくられました。品種は国光・紅玉から、ふじ・つがるへと高接ぎで更新されていきます。

一方で、りんごの木の腐らん病が1960年代以降に県内で多発し、りんご園をもも・ネクタリンや巨峰のぶどう園に替える農家が相次ぎました。家族の働き手が少ない農家では、手をかけずに育てられる栗へ替える例も見られたといいます。りんご園は1968年の616ヘクタールを最高に、減りはじめました。

小林(1985)は松川扇状地の農業を、りんごを主に、ぶどう・もも・さくらんぼを組み合わせる「複合的な果樹経営」と呼び、集落ごとに「りんご単作」「りんごとぶどう」「りんごともも」の3つの型が見られることを示しました。扇状地の外の集落から通ってくる農家も扇状地の上で耕していることや、1976年ごろからりんごの矮化(わいか)栽培が広まったことも指摘しています。

千曲川の岸の地割

千曲川沿いには、川とともに暮らす土地の分け方が残っていました。吉田和義(1987)は、松川がつくった小布施扇状地の扇端にある小布施町山王島(さんのうじま)の「地割(じわり)」または「割替(わりかえ)」と呼ばれる慣行を調べました。江戸時代に始まって150年以上続いた慣行で、ほぼ毎年のように洪水を受ける千曲川沿いでは、耕地の場所を定期的に替えることで、洪水の被害の危険を避ける働きがあったといいます。

吉田によると、地割は戦後の農地改革で、すべての農家に平等に割り当てる形に変わり、1975年までは7年ごとに割り替えられていました。千曲川の左岸ではりんごやももなどの果樹、右岸では野菜が多いという土地利用の違いも報告しています。

内山(2017)は大島集落の堤外地について、普通畑が多かった時代には被害を受けると割替がされていたが、水害に強い作物としてりんごが植えられるようになると、品種や樹齢の違いで土地の生産性がそろわなくなり、1941年以降は割替がされていないと書いています。

黄土色の土壁と黒い瓦屋根の土蔵と、雪の残る道沿いの民家
小布施町の町並みに建つ土蔵。黄土色の土壁に、下部を板で覆っている(2023年2月)(写真:Asturio Cantabrio/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

市と交流の町組

六斎市から安市へ

町の公式サイトによると、町組には1640年代に「六斎市(ろくさいいち)」が生まれ、月に6回、3と8のつく日に開かれました。18世紀後半には北信地域最大の市として栄え、多くの人や商品、諸国の情報が集まったといいます。

市がどこから品物を集めていたかについては、地理学の研究があります。黒崎千晴(1957)は、明治初期の善光寺平東部の各市場の集荷圏を取り上げ、地方の中小の市場の研究は販売の範囲を扱うものがほとんどで、どこから品物を集めたかという集荷圏はあまり考察されてこなかったと指摘しています。対象の市場に小布施の市が含まれるかは、論文の1ページ目からは確かめられませんでした。

小布施文化観光協会の案内によると、六斎市の流れをくむ市は「安市(やすいち)」として受け継がれ、いまは毎年1月14日・15日に町の中心部の皇大神社で開かれています。福だるまや縁起物が売られ、五穀豊穣を祈る行者の火渡りが行われます。秋(9月中旬〜10月中旬)には六斎市や東町きつね祭りが開かれ、ぶどう・りんご・栗・梨の収穫と栗菓子の仕込みの季節になります。6月上旬が栗の開花の時期です。

通り門と栗色の壁

小布施の住まいには「通り門」と呼ばれる門があります。景観計画によると、通り門は敷地に接する水路の利用に由来して成り立ち、農業の利用に加えて水害対策の意味もあったとされ、入口の両側の小部屋は、かつては蚕室として使われました。

新雄太・松田陽多・齊藤領亮(2021)は通り門の分布と使われ方を調べ、1980年ごろからは車庫や子ども部屋など農業以外の目的でも使われるようになり、所有者の多くが修理や改築をしながら使い続けていることを報告しています。

景観計画は、伝統的な農家の外壁に砂壁や土壁が多く、立ケ花(たてがはな)の粘土と松川の砂を使ったものが多いと言われ、「栗色」のものが多いと書いています。酸性の川が運んだ砂が、壁の色にもなっていたことになります。

黒地に赤や青、金色の羽を広げた鳳凰を描いた天井絵の一部
葛飾北斎が描いた岩松院本堂の天井絵「八方睨み鳳凰図」(部分)(写真:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

北斎と高井鴻山

六斎市による経済的な成功は、多くの豪農・豪商を生みました。町の公式サイトによると、六川の地域では武士や豪農、寺の住職が集った「六川吟社」と俳諧の小林一茶との交流があったことが知られ、江戸時代の末に小布施を拠点にした豪農・豪商の高井鴻山(たかいこうざん)は、晩年の葛飾北斎を小布施に招いて作品の制作を支えました。

北斎館の公式サイトによると、北斎は天保13年(1842年)、83歳のころに初めて小布施を訪れました。町内に残る7基の祭屋台のうち最も古い東町祭屋台を天保15年(1844年)に改造した折に天井絵「龍」「鳳凰」を、弘化2年(1845年)には鴻山が私財を投じてつくった上町祭屋台の天井絵「男浪」「女浪」を描いています。

雁田山の麓の岩松院の公式サイトによると、本堂の天井絵「八方睨み鳳凰図」は畳21枚分の大きさで、約180年間一度も塗り替えられていません。岩松院には、小林一茶ゆかりの「蛙合戦の池」もあります。

景観づくりと観光

景観計画によると、小布施町の景観のまちづくりは、昭和56年(1981年)の第二次総合計画に「“小布施の格調”を維持し育てる」という目標が盛り込まれたことに始まります。

町組の中心部では昭和57年から61年にかけて行政と住民・事業者が協働で「町並み修景事業」を行い、昭和62年には地域住宅計画(ホープ計画。計画の別の箇所では昭和63年策定)と町独自の「環境デザイン協力基準」、平成2年には「うるおいのある美しいまちづくり条例」、平成18年には景観計画が定められました。

計画は、町民に浸透した考え方として「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」を挙げています。2000年に38軒で始まった「おぶせオープンガーデン」は、1980年から取り組んできた「花のまちづくり」と、町に伝わる「縁側文化」「お庭ごめん」が重なって生まれたもので、官民が一体となったオープンガーデンとしては全国初だといいます。

観光地としての変化も、土地利用に現れています。内山(2017)によると、北斎館は1976年に開館し、上信越自動車道の小布施町の区間と小布施パーキングエリアが1995年に完成しました。パーキングエリアの隣には小布施総合公園がつくられ、高速道路の開通に合わせた観光地化が進んだと内山は見ています。

長野盆地の果樹と観光の関係では、林琢也・呉羽正昭(2010)が、長野市の国道18号線(通称アップルライン)沿いのりんごの観光農園を調べ、1990年代半ばの上信越自動車道の開通で人や車の流れが変わり、観光農園が個人客との継続的な交流の場へ変わっていったことを報告しています。

北信の家庭料理と行事

お茶とお茶請け

小布施の料理だけを扱った無料の研究は、今回は見つかりませんでした。ここでは、長野県全体と北信地方の家庭料理の調査を紹介します。

中澤弥子ら(2017)は、平成25〜28年の全県的な聞き取り調査から、長野県では農作業などの合間や日常に「お茶にする」時間を設け、日本茶にお茶請けを何種類も用意してみんなで食べて休む習慣が残っていると報告しました。お茶請けを出さない「からっ茶を出す」のは恥ずかしい、という文化があるといいます。

お茶請けには、野沢菜漬などの漬物、おやき(焼き餅)などの粉もの、煮豆、煮物のほか、あんずのシロップ漬、かりんの砂糖漬、柚餅子、柿を使った雲龍巻などの果物を加工したものが並び、家族や近所の人、人寄せ(集まり)で交流を担っていたと中澤らは書いています。

行事の食と盆花

中澤ら(2021)は、昭和30年ごろから県内各地で作り継がれている行事食をまとめています。北信地方のものとして、涅槃会のやしょうま、盆のおやき(北信・中信)・えご(北信・中信)・こりんと、祝い事の笹ずし、仏事のおにかけ・おとうじ、冠婚葬祭のいもなますが挙げられています。

木の箱に並んだ焼き色のついた丸いおやきと、手前で二つに割られて青菜の具が見えるおやき
店頭に並ぶおやき(他地域の参考写真)。おやきは北信の盆の行事食に挙がる(写真:Nesnad/Wikimedia Commons・CC BY 4.0)

盆の行事には、植物も欠かせませんでした。浦山佳恵(2016)は、長野県の旧119市町村誌の民俗編と聞き取りから、昭和30年代の盆行事を調べました。盆期間はおおむね8月13日から16日の月遅れで、盆棚の周りを盆花で飾り、盆花にはほとんどの地域でキキョウとオミナエシが使われていました。

盆花は花市で買う地域も、庭で育てる地域も、採ってくる地域もあったといいます。小布施文化観光協会の案内では、小布施町では毎年8月12日に「お花市」が開かれています。

漬物と冬の保存食

中澤ら(2019)は、長野県の副菜の特徴を、季節の畑の野菜や山菜・きのこの料理と、乾燥した寒い気候を生かした乾燥野菜や漬物などの保存食にあるとし、北信地方のものとして、しみ大根の煮物、いもなます、やたら、大根引き、かぼちゃ干しやなす干しのえごま和え、しょうゆ豆、えご、野沢菜煮(古漬けの煮物)、野沢菜の干葉の粕汁などを挙げています。

中澤ら(2022)は、野沢菜をはじめとする信州の伝統的な野菜の漬物が、減塩などの工夫を加えながら作り続けられ、おかずやお茶請けとして食べられていると報告しています。

小布施町の果樹の園地面積の移り変わりを示した折れ線グラフ。りんごは1968年に616ヘクタール、2006年はぶどう132・栗74・もも61ヘクタール
小布施町の果樹の種類別の園地面積。内山(2017)が引く長野農政事務所統計部の資料の値だけを点で示したもの(図:水のソムリエ編集部作成)

数字で見る変化

りんご全盛から多角化へ

小布施町の果樹の面積の移り変わりは、内山(2017)が引く長野農政事務所統計部の資料で追うことができます。りんご園は1948年に149ヘクタール、1959年に614ヘクタール、1968年に616ヘクタールで最高になりました。

ぶどう園は1965年に1ヘクタールでしたが、1975年に98ヘクタール、2006年に132ヘクタールになり、そのほとんどが巨峰です。もも・ネクタリン園は1966年の1ヘクタールから1981年に60ヘクタールに増え、2006年は61ヘクタール。栗園は1989年に50ヘクタール、2006年に74ヘクタールです。

内山によると、長野県の市町村別の果樹の種類別面積は、かつては同事務所の統計部で集計されていましたが、近年は集計されていません。そのため2010年の値は、JA須高の資料による、りんご園241ヘクタール、ぶどう園127ヘクタール、栗園79ヘクタール、もも園54ヘクタールという、出どころの違う数字になります。上の図には入れていません。

大島集落の土地利用

内山(2017)は、大島集落の周辺で同じ範囲の土地利用を4回測りました。りんご園の割合は1969年の48.9パーセントから、1981年に43.4パーセント、1993年と2005年に20.2パーセントになりました。

田は1969年に12.8パーセントありましたが、1970年以降の米の生産調整で1981年には消えています。栗園は1981年の7.1パーセントから、1993年に10.8パーセント、2005年に15.9パーセントへ増えました。内山は、栗園の増加を耕地利用の粗放化の表れと見ています。

農家と人口

2010年の農林業センサスによると、小布施町の農家は887戸、耕地は721ヘクタールで、そのうち田が117ヘクタール、畑が60ヘクタール、樹園地が544ヘクタールでした(内山 2017 による)。

町の景観計画によると、令和2年の人口は10,660人で、平成17年以降ゆるやかな減少が続いたのち、近年はほぼ横ばいです。土地利用は農地(田・畑)が約47パーセントで最も多く、雁田山などの山林が約13パーセントです。

杉木立に囲まれた、こけむした大きな屋根の木造の寺の堂
雁田山の麓、杉木立の中に建つ浄光寺の堂(2025年4月)。景観計画は、岩松院から浄光寺を経る散策道に湧き水の流れる小川が整備されていると書いている(写真:U-8 wiki/Wikimedia Commons・CC0)

この地域の水

湧水に乏しい扇状地と松川用水

小布施の水の話は、水路から始まります。景観計画によると、町内を放射状に流れる水路は、上松川から取水した松川用水が源です。小布施町は湧水に恵まれなかったため、水路は古くから地域と深く関わり、人々の暮らしに大きな便利をもたらしてきました。いまではほとんどがコンクリートの水路に替わり、計画は、水路の機能に支障のない範囲で景観に合った石積みの水路を復活させるとしています。

湧き水がまったくないわけではありません。景観計画は、雁田山の麓の岩松院から浄光寺を経てすべり山の上り口まで、散策道や湧き水の流れる小川が整備されていると書いています。雁田山周辺のハイキングコースの内側一帯1,099ヘクタールは、昭和57年3月に長野県の「郷土環境保全地域」に指定されています。

果樹園に水を引く仕組みもつくられました。中島峰広(1994)は、須坂市の日滝原(松川扇状地)と中野市の夜間瀬川の流域を比べ、1960年代に県営の畑地灌漑事業が行われ、ポンプ施設からパイプラインで果樹園に水を送り、スプリンクラーで散水する方式が採られたことを報告しました。

日滝原では19世紀半ばまで共有の草刈り場で、周りの村から境を越えてきた農家が開いた土地だったといいます。日滝原での散水期間は5月1日から9月30日です。

松川の上流から千曲川までの地点ごとの水の pH を並べた模式図。源流の旧坑口では pH2.2〜2.6、千曲川との合流前で pH3.7
松川の流れと水の pH。落合(2005)が記した地点と値を、上流から千曲川まで順に並べた模式図(図:水のソムリエ編集部作成)

酸性の川、松川

松川の酸性の理由は、上流にあります。落合照雄(2005)によると、松川水系は横手山に発して高山村を流れ、須坂市沿いに小布施町を流れて千曲川に入る26.4キロの川です。最上流部はかつての爆裂火口の跡で、右側の横手沢では1971年まで横手鉱山で硫黄を掘っていました。

落合が2000年7月から2003年6月に調べた結果では、横手沢の旧坑口からの水は pH 2.2〜2.6と強い酸性で、下流の松川の本流も七味温泉付近で pH 3.1、山田温泉付近で pH 3.0でした。

集落や人家、農産業の影響を受けながら下り、高山村の村内末端で pH 3.9、千曲川との合流前で pH 3.7です。1989年以来の年平均値では、上流の観測点で酸性がやや弱まる傾向があるとも書いています。

小布施の町の公式サイトが「酸性が強く、米を育てるには不向きな水質」と書いた松川の水は、こうした上流の事情を背負って扇状地へ流れ下ってきます。米づくりと松川の水質の関係を数字で確かめた資料は、今回は見つかりませんでした。

千曲川と篠井川

町の西を流れる千曲川は、国土交通省によると、甲武信ヶ岳に発して佐久・上田の盆地を経て善光寺平で犀川と合流し、立ヶ花の狭窄部を抜けて飯山盆地を流れ、新潟県境で信濃川と名を変える、長野県内の信濃川の呼び名です。流路延長は214キロ、流域面積は7,163平方キロです。

景観計画によると、千曲川は江戸後期から明治初期にかけての千曲川通船で栄え、小布施の大切な交易の要衝でした。いまは右岸の堤防の上におよそ4キロにわたって600本の八重桜が並び、河川敷には菜の花やももの花が咲きます。扇状地の扇端から延徳(えんとく)田圃にかけては水田地帯で、いまも130ヘクタールで水田の耕作が行われています。

小保田春加(2018)は、千曲川沿いの水神信仰の寺社や石造物を調べ、長野盆地の最も下流側の小布施地域では川の神を「河伯(かはく)さん」と親しみを込めて呼ぶこと、水運も盛んな地域で、水防だけでなく川そのものへの信仰が広まったことを報告しています。

いまの飲み水

いまの小布施町の水道は「町営水道」で、町の建設水道課上下水道係が担当しています。町営水道の水源がどこか、井戸水か川の水かは、公開資料では確かめられませんでした。

北信地方には、名水百選の湧き水もあります。長野県によると、平成の名水百選に選ばれた「龍興寺清水」は下高井郡木島平村大字穂高にあります。長野県内の名水百選は「長野県の名水」で紹介しています。

行く・買う

小布施町の中心部には北斎館と高井鴻山記念館があり、その周辺に栗の小径があります。雁田山の麓の岩松院では北斎の天井絵「八方睨み鳳凰図」を拝観できます(本堂への入場は拝観料が必要)。1月14日・15日の安市、秋の六斎市の時期と、栗菓子の仕込みの季節には町が賑わいます。開館日や行事の日程は、出かける前に各施設と小布施文化観光協会の公式サイトでご確認ください。

出典

一次資料(政府機関・公的機関の公表資料、研究論文、施設の公式サイト)。リンクの到達性は2026年10月15日に確認しました。J-STAGE の論文は、抄録を読めたものは抄録、読めないものは記事の1ページ目(J-STAGE が公開している画像)によります。研究報告・論文は、本文で「著者(年)」の形で参照しています。

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