荻町城跡展望台から見下ろした白川郷の合掌造りの集落と田に、岐阜県の形を重ねた画像

雪と養蚕の合掌の里 白川郷(岐阜県)の食と生業【水と地域文化】

岐阜県の北西のはし、白山のふもとに白川村があります。村の面積356.64平方キロのうち95.7パーセントを山林が占め、急な斜面のあいだを縫うように流れる庄川(しょうがわ)の流域に集落がつくられてきました。

白川郷は、急な屋根の「合掌造り」の家が並ぶ村として知られています。荻町(おぎまち)の合掌造りの集落は1976年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれ、1995年には「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界文化遺産に登録されました。

この記事では、米が足りなかった谷の暮らしを支えた稗や養蚕、大家族と「結(ゆい)」、豆を使った郷土の料理、そして集落の中を流れる水のことを、順にたどります。

この地域の水(要約)

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この記事の資料について

この記事は、白川村や国の公開資料と、無料で読める研究論文・資料だけをもとに書いています。現地での聞き取りや撮影は行っていません。研究の論点は「誰が、何を指摘したか」の形で示し、資料で確かめられなかったことは、そのつど「確かめられなかった」と書きます。明治初年の村のようすは、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている『斐太後風土記』の画像を見て確かめた記述だけを使いました。

岐阜県の中の白川村荻町の位置を示した地図。県の北西のはしにある
岐阜県の中の白川村荻町の位置(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」、国土交通省「国土数値情報(行政区域)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

庄川の谷の村――地形と村のなりたち

庄川の石の河原の向こうの段丘に建つ茅葺きの合掌造りと、その背後の杉林の山
庄川の河原の向こう、河岸段丘の上に並ぶ荻町の合掌造りと田(白川村)(写真:Zairon/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

庄川の東岸の河岸段丘

白川村によると、村は岐阜県の北西部にあり、白山(2,702メートル)、日照岳(1,751メートル)、人形山(1,726メートル)などの急な山々に囲まれています。飛騨地域の中でも山ひだが険しく、急斜面のあいだを縫うように庄川が流れ、その流域に集落が形づくられてきました。村は岐阜県の高山市と飛騨市、富山県の南砺市、石川県の白山市と境を接しています。

荻町の保存地区について、白川村が文化庁に寄せた資料は、集落の中心部分が庄川の東側右岸に広がる三日月形の河岸段丘にあり、屋敷地は耕作地のあいだに点在していると説明しています。合掌造りの家々の棟の向きは庄川の流れに沿ってそろい、まわりの旧道、田畑や畦畔、用水などが山間部の農耕の形とあいまって、独特の集落景観になっているといいます。

観光庁の多言語解説文データベースの「荻町城跡展望台」の解説によると、荻町の合掌造りの多くは南北の向きに建てられています。茅葺きの屋根の日当たりをよくするためと、庄川の谷の北と南から吹きつける強い風から、背の高い細長い建物を守るためだと説明されています。同じ解説は、展望台から見ると川の谷に耕作地が比較的少ないことも荻町の特徴だと書いています。

村の歴史について、白川村の計画は、宝治年中(1247〜1248年)に嘉念坊善俊が鳩谷の集落に入って浄土真宗を広めたこと、江戸時代の元禄5年(1692年)に幕府の直轄地となって明治元年まで高山陣屋の支配を受けたことを記しています。明治8年(1875年)には、白川郷のうち尾神から北の23か村をあわせて白川村が生まれました。

明治初年の荻町村と「大郷」

明治初年の白川郷の村々のようすは、『斐太後風土記』にくわしく記されています。飛騨の村々を調べた地理学者の梶川勇作(1970)は、この書物を、富田礼彦が明治3年に各村から出された書上げをまとめたものと注に記しています。昭和5年(1930年)に刊行された『大日本地誌大系』第23巻に収められ、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。

その荻町村の項によると、荻町村は家55戸、人は390余人でした。焼畑は2町5段歩で、ほかに5町歩と書かれ、「享保十二未年渡」と注記があります。産物の筆頭は米105石で、稗は2石3斗、大豆20石2斗、大麦10石、粟7石5斗と続きます。桑1万5千貫目、麻60貫目、楮(こうぞ)40貫目、大繭220貫目といった養蚕と紙の原料も並びます。

同じ書物は、荻町・鳩谷・飯島の三村が向かい合って並び、平らな田が多く、稲を作って白川郷の中の府ともいうべき地なので「大郷」と呼ぶ、という村名の説明を載せています。これに対して、荻町村の北にある島村は家6戸、人70余人で、産物は米15石に対して稗が33石余と、米より稗の方が多く記されています。

川の両岸に張った綱に籠が吊られ、奥に白山などの山が描かれた荻町村の籠渡の挿絵
『斐太後風土記』に描かれた荻町村の籠渡。庄川の両岸に藤の大綱を張り、籠に人を乗せて引き渡した(画像:国立国会図書館デジタルコレクション『大日本地誌大系 第23巻』〔コマ163〕・パブリックドメイン)

庄川を渡る「籠渡」

庄川は、白川郷の村々を東と西に分けて流れていました。『斐太後風土記』の首巻は、川を渡る道具として「籠渡(かごわたし)」を挙げ、荻町へ通じる籠渡の綱の長さを38間、荻町村・鳩谷村の項に挙げた字上崎の籠渡の藤綱を56間と記しています。荻町村の項にも、荻町の地内の通路に大綱長さ38間の籠渡が掛かっていたとあります。

同じ首巻は、籠渡のしくみも書いています。楓に似た「はなの木」を藤で十文字にからめて籠の骨とし、藤で編んだ籠に木をくりぬいた部品を付け、何本もの藤の大綱を通して川の両岸に張りわたす。籠には引綱と控綱を付け、人を乗せてこちらの岸から向こうの岸へ引き渡した、というものです。村人がひとりで綱をたぐって渡るさまは蜘蛛が糸をつたうのに似ていて、その危うさは言いようがない、とも書かれています。

白川郷を地理学はどう見てきたか

白川郷の地形と暮らしは、地理学でも早くから取り上げられてきました。明治44年(1911年)の『地学雑誌』は、やまと新聞の記事に拠って白川村の戸口の統計を紹介し、もとは白川郷と呼ばれ23の部落から成る村が、東西約14里、南北約11里の広い面積をもちながら戸数はわずか320、人口2,746にすぎないこと、住める土地が谷底に限られることを伝えました。

上島正徳(1950)は、『斐太後風土記』の焼畑の反別の数字を使って、飛騨の大野郡の焼畑の分布を図にしました。上島によると、焼畑のおもな地域は郡の西部の荘川・白川2村の谷で、大野郡の焼畑全面積773.45町歩のうち421.65町歩、54.5パーセントを占めていました。その中でも上流の荘川村が292.39町歩と白川村をはるかにしのいでいた、と上島は書いています。

上島(1952)は続く論文で、江戸時代の庄川上流の地域を、経済の成り立ちから二つに分けました。抄録によると、上流の荘川では多くの村で米が作られ、焼畑で稗も多くとれたので、ふつうの年は食料を自給できた。これに対して白川では食料を自給できず、生糸や「焔硝(えんしょう。火薬の原料)」、楮の皮などを売って、富山平野から米やほかの生活の品を買わなければならなかった、と上島は指摘しています。荘川は南の地域と、白川は北の地域と結びつき、どちらも高山とつながっていたとも書いています。

梶川(1970)は、論文の1ページ目で、飛騨は東を飛騨山脈、西を両白山地に挟まれ、日本海と太平洋の分水界が東西に横切る典型的な山国で、耕地の条件が悪いため小さな村が多く、藩政村の戸数の規模が最も小さい地方だったと書いています。そのうえで、低い生産力を補う「農間稼(のうまかせぎ)」と村の中心性を検討しています。

加藤晴美(2011)は、白川村という山村がどう見られてきたかを地理学から論じました。抄録によると、明治・大正期の白川村は山奥の別世界とみなされ、大家族制をはじめとする「奇異」な風習が残る地域として知られていました。それが「古い文化」を持つ貴重な地域として高く評価されるようになったのは昭和戦前期で、その背景には当時の白川村の生活の変化や、盛んに行われた郷土研究や観光開発があった、と加藤は指摘しています。ブルーノ・タウトが初めて価値を認めたとも言われるが、実際にはタウト以前に始まった日本人の郷土研究者らによる見方の変化が評価の高まりを導いた、というのが加藤の見立てです。

明治初年の荻町村と島村の米・稗・大豆などの産物の量を石で比べた棒グラフ
明治初年の荻町村と島村の穀物の産物。『斐太後風土記』の記載から、米・稗・大豆・大麦・粟・蕎麦・小麦・小豆の量(石)を並べたもの(図:水のソムリエ編集部作成)

米の足りない谷――稗と焼畑、売るための品

焼畑と稗

焼畑は、山の木や草を切って焼き、その跡に数年だけ作物を作って、また山に返す農業です。『斐太後風土記』は白川郷の村ごとに焼畑の広さを記しており、上島(1950)はその数字から、大野郡の焼畑が荘川と白川の谷に集まっていたことを示しました。

図1のように、平らな田の多い「大郷」の荻町村では米が最も多いのに対し、島村では稗が米の2倍を超えています。同じ白川郷の中でも、田の広さによって主な穀物が違っていたことが、明治初年の書上げから読み取れます。焼畑で何を何年目に作ったかという順序や、稗をどう食べたかは、今回読めた資料では確かめられませんでした。

白川村の計画によると、いまの村の耕地は109ヘクタール(田84ヘクタール・畑25ヘクタール)で、冬は4か月も雪に閉ざされ、農業にとって極めて厳しい条件にあります。村では古くから稲作を中心とした農業が営まれてきた、とも書かれています。村の産品の紹介では、村で昔から育てられてきた在来種のそばを使う店があることが紹介されています。

生糸・焔硝・楮を売って米を買う

上島(1952)が挙げた白川の売るための品のうち、生糸は次の節で見る養蚕の産物です。焔硝について、白川村が文化庁に寄せた保存地区の資料は、江戸時代中期から養蚕が盛んになり、焔硝の製造も行われるようになったことが、合掌造り民家の発達を促したといわれる、と説明しています。

荻町にある国の重要文化財・和田家について、白川村教育委員会は、江戸時代に名主(庄屋)や番所役人を勤め、焔硝の取引によって栄えた家だと紹介しています。和田家の附属屋の「板蔵」と「稲架小屋(はさごや)」は、火事の類焼を防ぐために主屋から少し離れた場所に建てられ、柱のあいだを貫く材が秋に収穫した稲を干す稲架(はさ)の棒を兼ねているといいます。

黄色く実った稲田の奥に建つ茅葺きの合掌造り2棟と、緑の山
実った稲の田の奥に建つ荻町の合掌造り。切妻の壁に窓が並ぶ(白川村)(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY 2.5)

養蚕と合掌造り

屋根裏の蚕

観光庁の多言語解説文データベースの「白川郷の養蚕」の解説によると、養蚕は遅くとも18世紀までに白川郷で始まり、19世紀後半には地元の主要な産業になりました。急な三角屋根の合掌造りの家が多く建てられるようになったのもこの時期で、合掌造りが広まったおもな理由は、養蚕に向いていたからだと説明されています。

典型的な合掌造りの家には、傾いた屋根の裏に何層にも分かれた広い屋根裏があります。切妻の端の窓から光と風が入り、囲炉裏の熱と煙が格子の天井を伝って上がってくるので、屋根裏は暖かく乾いた状態に保たれる。寒さと湿気に弱い蚕を育てるのに理想的な場所だった、と解説は書いています。蚕のえさの桑を近くの斜面で育てられたことと、十分な人手があったことが重なって、白川郷は江戸時代の後期から20世紀初めの数十年まで、周辺でも指折りの質の高い生糸の産地になりました。別の解説によると、村の養蚕は1970年代まで続けられました。

村に伝わる春駒(はるこま)も養蚕とかかわる芸能です。白川村のエコツーリズム推進全体構想によると、春駒はかつて村内で養蚕の繁栄を願って行われた祭りで、もとは3月の初午に家々を回って豊蚕を願う「蚕飼祭り」でした。養蚕の衰退で途絶えたものの、近年は正月や例祭、結婚式などの祝いの場でも演じられています。春駒踊りは岐阜県の無形民俗文化財に指定されています。

大家族とシンガイ稼ぎ

白川郷は、ひとつの家にたくさんの人が暮らす「大家族」でも知られてきました。村落社会研究の柿崎京一(1999)は、大家族は18世紀ごろに始まって徐々に大きくなり、20世紀初めに発展の頂点に達したと推測されること、最も集中していたのは今の白川村の南部の中切(なかぎり)の地域だったことを、抄録で述べています。頂点の時期には、白川郷の1家あたりの人数はおよそ30人で、最も大きい遠山家は48人だったといいます。

柿崎(1999)が分析したのは、1853年から1891年までの遠山家の働き方です。家の者の労働は、家全体のための共同の作業と、個人の収入のための小さな生産とを行き来する仕組みになっていて、後者は「シンガイ(新開)稼ぎ」と呼ばれた、と柿崎は書いています。白川村は「遠山家シンガイ稼ぎ文書」を村の文化財(古文書)に指定しています。

御母衣(みぼろ)にある旧遠山家住宅について、白川村多言語解説協議会が観光庁のデータベースに寄せた解説は、1850年ごろに建てられ、20世紀初めには一族の45人ほどが一緒に住んでいたと書いています。農地が限られていたため、跡取り以外の子どもが家を出て新しい家族をつくるのではなく、一族がひとつ屋根の下で同じ畑を耕す暮らし方が、白川の南部や北部でよく見られた。明治時代に入って養蚕が暮らしの主な手段になると、手間のかかる仕事の人手として、家長は子や孫を家に留めようとした、と解説は説明しています。

屋根の葺き替えのために足場とはしごが掛けられた茅葺きの合掌造り
茅葺き屋根の葺き替えのために足場が組まれた白川郷の合掌造り(写真:Indiana jo/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

結と茅葺き

屋根の葺き替えと結

白川村のエコツーリズム推進全体構想は、白川郷の集落の暮らしは昔から家どうしの助け合いと協力によって営まれてきたと書いています。山あいにあり、冬は雪に閉ざされて集落が孤立する厳しい条件のもとでは、家が単独で暮らしを保つのはとても難しいからです。とくに合掌屋根の葺き替えと茅刈りは、村をあげて組織的に行われているといいます。

ランドスケープ研究の内海美佳・黒田乃生(2009)は、「結」と屋根の葺き替えの移り変わりをたどりました。抄録によると、結はもともと村のさまざまな共同作業で働いていたものでした。屋根の葺き替えとしての結は1950年代後半から衰え始め、1980年代前半になると、白川村の研究の中で結が「守るべきもの」として新しく位置づけられ、「結=葺き替え」という図式が生まれた。1995年の世界遺産登録の後には、新聞などのメディアが結を白川郷の象徴として取り上げた、と二人は指摘しています。

内海・羽生冬佳・黒田(2008)は、荻町で葺き替えに携わる人と、最近葺き替えを行った家の人に聞き取りを行いました。抄録によると、荻町では葺き替えを取りまとめる担い手が三つあり、家の持ち主がその中から選ぶ形で、結が保たれながら実践されていると報告しています。

荻町の住民は1971年に「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を作りました。白川村の資料によると、会は毎月の現状変更の協議や景観保全の啓発、茅刈りのイベント、結の屋根葺きの奨励などを続けています。

森と茅場の移り変わり

屋根の材料の茅は、集落のまわりの山や茅場から得てきました。黒田乃生(2002)は、荻町の森林の使われ方と景観の変化を調べ、多様な利用が続けられてきた森林で、1960年代を境にその多くが衰退・消滅したと抄録で述べています。その後、草地の減少が最も大きな景観の変化として現れ、それまであいまいだった集落と森林の境がはっきりしていった。いま見られる高い木に覆われた森林の景観は、利用が減ったことでこの数十年のうちに形づくられたものだ、と黒田は指摘しています。

白川村の資料によると、2025年度には「白川郷茅場」がふるさと文化財の森に設定されました。茅の自給率を上げるための茅刈りのイベントも開かれています。

朱塗りの椀に入った白いすったて汁
白川村の郷土料理・すったて汁。石臼ですりつぶした大豆をだしでのばした料理(写真:大野 一将/Wikimedia Commons・CC0)

食と祭り

すったてと堅い豆腐

白川村によると、「すったて」は、石臼ですりつぶした大豆に、味噌や醤油をもとにしただしを合わせて作る料理で、白川郷で祝いごとや報恩講(浄土真宗の行事)の時に親しまれてきた郷土料理です。村の南部の有志は、これを飛騨牛と合わせた「白川郷平瀬温泉飛騨牛すったて鍋」に仕立てて広めています。

白川郷の豆腐は堅いことで知られます。村の産品の紹介では、1丁に2キロもの大豆を使う、この地方の名物の「縄で縛っても崩れない豆腐」が紹介されています。調理学の堀光代ら(2022)は、荻町の報恩講の料理を調べ、「おはんべ」と呼ばれる堅豆腐がこの地方の重要なたんぱく源で、報恩講には必ず用意されていたと報告しています。

岐阜県の家庭料理を聞き書きで調べた山根沙季ら(2018)は、飛騨の「こも豆腐の煮物」を挙げています。豆腐を藁で編んだ「こも」に包んで長い時間ゆで、すを立たせて味をしみこませる煮物で、祭りや祝いごと、法事などに作られていたといいます。長屋郁子ら(2022)も、貴重なたんぱく源として豆腐の保存性を高めた飛騨の「こも豆腐」を挙げ、春に採った山菜を保存して年取りのおかずや「ほんこさま料理」に使っていたと報告しています。

報恩講料理(ほんこさま)

報恩講は、浄土真宗で最も大きな行事です。堀ら(2022)は、毎年自宅で報恩講を行っている荻町の家族の協力を得て、平成26年から28年に調べました。抄録によると、この地域では報恩講を「ほんこさま」と親しみを込めて呼んでいました。お斎(とき)の料理には、山菜のこごみやわらびを摘み取り、四季折々に収穫した野菜のうち形のよいものを冷凍して使っていたといいます。

調理する人の代替わりと冷凍庫の購入で、料理の品数は増えていました。平成28年度の調査では、20種類以上の料理を30人分ほど用意し、膳や漆器は先祖代々受け継がれたものを使っていました。次の世代への継承については、準備にかかる時間や労力を考えると心配な面もある、と堀らは書いています。

年越しと塩鰤

飛騨の年越しの膳には、海の魚も並びました。山根ら(2018)は、飛騨の正月には富山からの「鰤街道」で運ばれた塩鰤を食べ、高価な鰤の代わりに塩蔵したいかを「煮いか」として食べることもあったと報告しています。木村孝子ら(2021)によると、飛騨の年越し料理では塩鰤の切り身を焼いて「煮なます」を添え、雑煮に富山の赤巻き蒲鉾や焼き豆腐、かしら芋を入れるなどの特徴がみられました。上島(1952)が指摘した、白川と北の地域との結びつきは、食卓にも表れていたことになります。

どぶろく祭(名称と日程)

白川郷の秋の祭りは「どぶろく祭」と呼ばれます。白川村によると、五穀豊穣・家内安全・里の平和を山の神に祈る祭りで、村の各地区の神社で御神幸、獅子舞、民謡や舞踊などの神事が行われます。おもな日程は、白川八幡神社が10月14日〜15日、鳩谷八幡神社が10月16日〜17日、飯島八幡神社が10月18日〜19日です。

奉芸殿では、「子大事」がなまったものといわれる「こだいじん」をはじめ、「白川おけさ」「しょっしょ節」「白川わじま」などの民謡が披露されます。白川村は、どぶろく祭を村内5神社の無形民俗文化財として昭和45年(1970年)に村の文化財に指定しています。こだいじんと白川村の獅子舞は、岐阜県の無形民俗文化財です。祭りの期間中は村内で交通規制があり、観光施設の一部が休みになります。

1980年から2020年までの白川村の国勢調査人口を5本の棒で示したグラフ
白川村の人口の推移(1980〜2020年の国勢調査)。白川村過疎地域持続的発展計画の表から(図:水のソムリエ編集部作成)

数字で見る変化

人口

白川村の計画によると、村の人口は昭和35年(1960年)の9,436人をピークに減り続け、令和2年(2020年)の国勢調査では1,511人になりました。同じ計画の表(国勢調査)では、1980年が2,132人、1990年が1,892人、2005年が1,983人、2015年が1,609人です。1990年から2005年にかけての一時的な増加について、計画は、世界遺産への登録(平成7年12月)や東海北陸自動車道の白川郷インターの供用開始(平成14年11月)で若い世代の雇用が広がり、Uターンが増えたためと考えられると書いています。2020年の高齢者の割合は33.1パーセントでした。

仕事のかたち

同じ計画は、村の産業はかつて養蚕や林業が中心でしたが、高度経済成長とともに建設業や生コン・採石業などが伸び、庄川水系を使った水力発電所の開発も村の経済を後押ししたと書いています。国勢調査による就業者の割合は、1975年には第1次産業19.9パーセント、第2次産業39.1パーセント、第3次産業41.1パーセントでしたが、2020年には第1次2.7パーセント、第2次23.0パーセント、第3次74.4パーセントとなり、観光にかかわる仕事の割合が大きくなっています。

冬の観光の形も変わってきました。白川村は、2026年の第40回白川郷ライトアップイベントについて、温暖化による雪不足と日没の時間を考えて開催を4回とし、完全事前予約制とチケット制で参加人数を管理すると案内しています。

世界遺産と暮らしをめぐる研究

世界遺産になった白川郷は、民俗学や景観の研究の対象にもなってきました。黒田乃生・小野良平(2003)は、1888年以来、多くの民俗学者・社会学者・建築学者が家族制度と合掌造りを調べるために白川村を訪れてきたことを抄録で述べています。そのうえで、文化財として住まいを守る候補となった家の住民の多くが指定を断ったことから、住み続ける家を文化財として保存することの難しさを指摘しました。

才津祐美子(2006)は、世界遺産登録後の「白川郷」で景観に起きている変化を、観光客の急増による「悪化」だけでなく、修景に伴う「改善」の両面からとらえました。抄録によると、どの変化を悪化とみるか改善とみるかは評者によって違い、誰が判断するのかが問題になる。そして景観の変化は、そこに暮らす人々の生活に直結している、と才津は論じています。荒井浩幸(2021)は、才津が2020年にまとめた『世界遺産「白川郷」を生きる』を書評し、著者が1998年に初めて白川郷を訪れてから調査を重ね、合掌造りという「普通の人びとの家」を中心とした文化遺産を、「生きている遺産」という言葉を手がかりに論じた本だと紹介しています。

緑の木々に囲まれ、岩の岸と河原のあいだを流れる庄川
白川村を流れる庄川。岩の岸のあいだを澄んだ水が流れる(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY 2.5)

この地域の水

庄川と「白川年魚」

国土交通省によると、庄川は岐阜県高山市の烏帽子岳(1,625メートル)と山中山の山中峠(1,375メートル)に発し、岐阜県内で尾上郷川、六厩川、大白川などを合わせて北へ流れます。富山県に入ると南砺市利賀村で利賀川を合わせ、砺波平野に出て射水市大門で和田川を合わせて日本海に注ぐ、幹川流路延長115キロ、流域面積1,189平方キロの一級河川です。流域は岐阜・富山両県の7市1村にまたがり、山地などが約93パーセントを占めます。

『斐太後風土記』は、荻町村の項で「白川梁(やな)」をとりあげ、白川の年魚(アユ)は流れの激しい川のため国中に並ぶもののない香りと味だとして、高山の町でも人々がほめたたえると書いています。梁は大郷の村々で毎年掛けられ、中切の村々では年によって掛けられたとも記されています。いまの庄川の魚とアユの漁については、今回の資料では確かめられませんでした。

丸い石を並べた岸の水路で、澄んだ水の中を泳ぐ数匹の魚
荻町の集落を流れる水路。澄んだ水の中を魚が泳ぐ(写真:Ray Swi-hymn/Wikimedia Commons・CC BY-SA 2.0)

集落をめぐる用水

荻町の合掌造りのまわりには、田畑や畦畔とともに用水がめぐっています。文化遺産オンラインは、合掌造り民家やハサ小屋(農小屋)と、田畑や畦畔・小川などの農耕の形があいまって、独特の集落景観をつくっていると説明しています。

建築計画の水ノ江秀子・西山徳明(2007)は、明治中ごろの図面を何枚もつなぎ、文献も参照して荻町の明治期の土地利用をとらえ、伝統的な景観を読み解きました。抄録によると、厳しい気候のもとで合理的な暮らしが営めるよう、荻町では独特の水の仕組みによって空間の秩序がつくられていた、と二人は指摘しています。水路の一本一本がどこから引かれ、何に使われてきたかは、今回読めた資料では確かめられませんでした。

雪の積もった庭のあいだを流れる石組みの水路と板の橋、奥に雪をかぶった合掌造り
雪に覆われた荻町の和田家住宅の前を流れる水路(写真:そらみみ/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

雪と水

白川村は日本有数の豪雪地帯です。村の教育委員会は、例年12月から3月にかけて雪が降り、積雪は2〜3メートルに及ぶと書いています。かつて白川郷が「陸の孤島」「秘境」と呼ばれたのは、山深いだけでなく、豪雪で冬のあいだ周りの地域との行き来が断たれたからだ、とも説明しています。

気象庁の観測所・白川の平年値(1991〜2020年)では、年降水量は2,458.2ミリで、12月(282.8ミリ)と1月(281.8ミリ)が最も多い月です。降雪の深さの合計は年972センチ、最深積雪は177センチで、最深積雪の月の平年値は2月が173センチです。夏は7月の277.7ミリが多い月です。なお、白川村の計画は年間降水量を1,980ミリ、平均気温を11.7度としており、気象庁の平年値(年平均気温10.9度)とは出どころと集計の期間が違います。

雪の季節の前には、家々を刈り取った茅や藁などで覆う「雪囲い」が行われると村は紹介しています。春の雪解けは3月に始まり、すっかり解けるのは4月になる年が多いといいます。5月中ごろには田植えの前の水を張った田に合掌造りの家が映り、5月末ごろには早乙女が田植え唄に合わせて手で植える田植え祭りが開かれます。

茅葺きの合掌造りの手前に立つ茶色の屋外消火栓と、緑の山
白川郷の合掌造りのそばに立つ消火栓(写真:Tabuchi Yutaka/Wikimedia Commons・CC BY 3.0)

放水銃と一斉放水訓練

茅葺きの合掌造りは火に弱く、一棟の火事が燃え広がれば、集落全体に及ぶおそれもあります。観光庁の多言語解説文データベースの「防火:当時と現在」の解説によると、かつての防火は火事を防ぐことと同じくらい、燃え広がりを食い止めることに重きが置かれ、家と家、家と倉のあいだに十分な間をとって建てていました。いまは指定場所以外での喫煙の禁止や、すべての建物への煙探知機の設置、1日3回までの見回りなどが行われています。

白川村が文化庁に寄せた資料によると、荻町では昭和52年度(1977年度)から昭和56年度にかけて、放水銃と屋外・屋内消火栓の防災事業が進められ、放水銃60基を主体とした防災施設が整えられました。村の移住情報サイトに載った飛騨日日新聞の記事によると、放水は消火活動ではなく、家と家のあいだに水のカーテンをつくり、集落全体を霧で覆うことで延焼を防ぐためのものです。いざという時に放水銃がきちんと働くよう、点検のための一斉放水訓練が50年ほど前から続いています。

訓練は毎年10月末から11月上旬に荻町の合掌造り集落で行われます。朝8時のサイレンを合図に、合掌造りをかたどった収納箱が開き、30メートルにもなる水柱が集落のあちこちから一斉に立ち上がります。放水は5分ほどを2回で、放水銃を扱うのは集落に暮らす村民です。多くの観光客が訪れる光景ですが、目的は観光ではなく防災だと、記事は消防団と荻町区長の話として伝えています。

いまの飲み水

白川村の水道は、村が営む簡易水道です。村の計画によると、令和元年度の水道普及率は95.3パーセントで、老朽化した配水管の更新で有収率を上げ、村民に節水への理解を広めることが課題とされています。

令和7年度上半期の業務状況報告書によると、令和7年9月末の給水戸数は695戸で、上半期の1日平均の配水量は643立方メートルでした。平瀬・牧、小白川、大郷の各給水区の施設の維持管理が委託されています。各給水区の水源が川の水か地下の水かは、公開資料では確かめられませんでした。

庄川は下流で富山県の砺波平野を流れます。庄川の近くに湧く富山県の名水は、「富山県の名水」で紹介しています。

行く・買う

荻町の合掌造り集落は、国の重要伝統的建造物群保存地区で、世界遺産の集落の一部です。国の重要文化財の和田家住宅は荻町に、旧遠山家住宅は御母衣にあります。行事の日程や交通規制、駐車場の予約については、白川村役場と白川郷観光協会の公式サイトで確かめてから出かけてください。冬は路面が凍ることがあるので、村は冬用の靴などで歩くよう呼びかけています。

出典

一次資料(政府機関・公的機関の公表資料、研究論文、施設の公式サイト)。リンクの到達性は2026年10月19日に確認しました。J-STAGE の論文は、抄録を読めたものは抄録、読めないものは記事の1ページ目(J-STAGE が公開している画像)によります。『斐太後風土記』は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で本文を確かめました。研究論文は、本文で「著者(年)」の形で参照しています。

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