仁淀川町の中津渓谷を背景に高知県の形を水色で重ねたアイキャッチ

焼畑と平家伝説の山里 椿山(高知県)の食と生業【水と地域文化】

高知県の北西部、愛媛県との県境に近い山の中に、仁淀川町(によどがわちょう)の椿山(つばやま)があります。仁淀川町観光協会は、標高約600メートルの山肌の急傾斜に家々が段々の棚田のように建つ様子を「天空の山里」と紹介しています。

椿山は、焼畑が遅くまで続いた村として知られてきました。観光協会と、高知工科大学に提出された椿山の卒業研究は、昭和50年代中頃まで本格的な焼畑が行われていたと書いています。2001年に椿山の食を調べた橋尾直和も、「20数年前まで焼畑農業が営まれてきた」集落と記しています。

椿山にはもう一つ、平家の落人の伝説があります。壇ノ浦の戦いのあと安徳天皇を守る平家の一行がこの地で3年を過ごしたと伝えられ、集落の氏仏堂で奉納される太鼓踊りは、安徳幼帝の子守歌、平家の武将や公達の霊を慰める踊りとして受け継がれてきました。

一方で、椿山は人の減り方の大きな集落でもあります。2000年11月の時点で13戸19人、2016〜17年ごろの調査では、実際に暮らしている住民は1人と報告されています。

この地域の水(要約)

詳しくは「この地域の水」へ

杉の木立の向こうにそびえる雨ヶ森の山頂と森に覆われた山腹
岩柄の分岐付近から約1キロ下ったあたりから見た雨ヶ森(仁淀川町・2014年10月)。椿山の東にそびえる標高1,390メートルの山(写真:Dokudami/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

この記事の資料について

この記事は、高知県と仁淀川町、国の公開資料と、無料で読める研究論文・報告だけをもとに書いています。現地での聞き取りや撮影は行っていません。研究の論点は「誰が、何を指摘したか」の形で示し、資料で確かめられなかったことは、そのつど「確かめられなかった」と書きます。

四国山地の急斜面に住む――地形と立地

高知県の中の仁淀川町椿山の位置を示した地図。愛媛県境に近い県の北西部にある
高知県の中の椿山の位置(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」、国土交通省「国土数値情報(行政区域)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

石鎚山の南、愛媛県境の谷

中内惇の卒業研究は、椿山を「四国の最高峰石鎚山の南方、標高600〜800mの急峻地」にあり、愛媛県と接する集落と書いています。観光協会のページは標高を約600メートルとし、池川の中心部から車で約30分の奥山にあると案内しています。2021年に観光協会のブログが紹介した記録映画の説明では、標高700メートルの急傾斜地に石積みを重ねた集落とされています。標高は資料によって幅があります。

地理院地図で椿山の周りを見ると、集落の西側には愛媛県との境をなす尾根と「高台越」の峠道の表記があり、東には雨ヶ森(1,390メートル)がそびえます。集落のすぐ東を大野椿山川が南へ下り、大野、用居、百川内といった集落の並ぶ国道439号の谷へ出ていきます。

観光協会は、平地が少ないので田畑も段々で、家から見える風景は深い谷の向こうに山々の緑が目前に広がり、場所によっては滝の姿も見えると書いています。地理院地図にも、椿山の南東の谷に「五色の滝」の表記があります。

山すその集落の前を大きく曲がって流れる土居川と白い河原
池川の竹ノ谷で大きく曲がる土居川と集落(仁淀川町・2007年3月)。土居川は仁淀川の支流の一つ(写真:Tomomarusan/Wikimedia Commons・CC BY 2.5)

池川町から仁淀川町へ

椿山は、平成17年(2005年)8月1日に吾川村・池川町・仁淀村の3町村が合併してできた仁淀川町に属します。合併前は吾川郡池川町に属していました。町の説明によると、仁淀川町は高知市から約50キロ、車で約1時間半の距離にあり、北に四国山地、東西に仁淀川が横断します。

町の地形は標高約100メートルから1,800メートルの山間部で、集落は川沿いや山麓に点在しています。まちづくり計画によると、町の総面積333.00平方キロのうち山林が89.3パーセントを占め、農用地は2.4パーセントにすぎません。気候は比較的温暖多雨で、年間雨量は多いところで2,500ミリに達するとされます。

町は、立地条件を生かした農林業をはじめとする里山の産業が古くから主体で、とくに製茶業は県下でも有数の生産高を誇ると書いています。中内の研究も、椿山集落でも製茶が行われていると記しています。

四国山地の山村を地理学はどう見てきたか

四国山地の山村は、地理学で繰り返し取り上げられてきました。相馬正胤(1971)は、人口減少の動向から四国山岳地方の東西を対比し、みつまた(ミツマタ)の栽培を手がかりに地域の分かれ方を考察しました。抄録によると、相馬は西部の「春焼式焼畑地域」が解体し、高い位置の林業地域と低い位置の農耕地域とに分化しつつあると指摘しています。

相馬(1971)は、高知県本川村(現在のいの町)を対象に、新しい交通路が四国山地の分水嶺を横切る部分で林業開発が誘発され、村が林業地域に組み込まれていく過程も追いました。本川村の寺川は、橋尾(2001)が示した地図では椿山の北東、愛媛県境の近くにあります。

篠原重則(1976a)は、過疎対策として行われた集落移転を、徳島県木頭村と愛媛県日吉村の二つの村で調べました。抄録によると、移住者は移転前の山間地へ林業労務や自営の林業に通う人が多く、その経済活動には問題点が多いと篠原は書いています。

篠原(1976b)は、高度経済成長期の山村の変貌を、愛媛県日吉村の廃村と残存集落の対比で論じました。論文の1ページ目で篠原は、人口や戸数の流出が著しく廃村化の過程をたどる集落がある一方で、似た立地条件にありながら人口・戸数の減少が小さい集落もあることを、調査の中で突き当たった問題として挙げています。

福田珠己(1989)は、高知県吾川村上名野川(現在の仁淀川町)の小字名を事例に、四国山地の旧焼畑村落で住民が環境をどう区分していたかを論じました。論文の1ページ目で福田は、研究者の視点からとらえた環境ではなく、主体(住民)による環境の認識に焦点をあてる研究の流れの中に、この論文を位置づけています。

焼畑の村

高知県の焼畑と「切畑」

焼畑は、山の木や草を伐って焼き、その跡に数年だけ作物を作って、また山に返す農業です。地理学者の横川末吉(1952)は、高知県が焼畑耕作で重要な地位を占めてきたことから、すでに多くの研究があると書き出しています。同じ1ページ目で横川は、山口貞夫が「四国では植林とみつまたの交互の間にある」と論じたことを、焼畑の集約化に着目したものとして紹介しています。

横川(1955)は、続く論文で長宗我部地検帳を引いて、近世初期の高知県の焼畑を論じました。論文の1ページ目によると、土佐藩の焼畑に関する記載はすべて「切畑(キリハタ)」となっており、長宗我部地検帳にも切畑としてかなり精密な記載があるといいます。

椿山の焼畑の春山と夏山、作物を作る3〜5年、山に返して20〜30年で戻る周期を矢印で示した模式図
椿山の焼畑のめぐり(模式図)。前年の夏に木を伐って春に焼く「春山」と、夏に伐ってすぐ焼く「夏山」、3〜5年作って山に返し、20〜30年でもとの場所に戻るという周期を、記録映画の紹介文と観光協会の記述から整理したもの(図:水のソムリエ編集部作成)

春山と夏山――記録映画が写したもの

椿山の焼畑は、民族文化映像研究所が製作した記録映画「椿山―焼畑に生きる―」に残されています。新潟県立生涯学習推進センターの教材紹介によると、映画は高知県池川町椿山で行われていた雑穀主体の焼畑を4年間にわたって記録したものです。

紹介文は、椿山の焼畑には二つの方法があったと書いています。前年の夏に木を伐って春に焼く「春山」と、夏に木を伐ってすぐに焼く「夏山」です。3年から5年作物を作って山に返し、20年から30年の周期でもとの場所に帰る。映画は焼畑の作業とともに、太鼓踊りのある氏仏のまつりや先祖まつりの様子も記録しているといいます。

2021年8月8日、高知城歴史博物館の地域展「仁淀川~流域の歴史と文化~」の関連行事として、この映画が上映されました。観光協会のブログは、映画に標高700メートルの急傾斜地に石積みを重ねた集落が映り、焼畑の作物としてアワ・ヒエ・キビ(トウモロコシ)・ソバ・ムギ・ダイズ・アズキ・イモが出てくると書いています。急斜面のため米を作ることはできなかったとも記されています。

観光協会の観光ページは、昭和50年代中頃まで焼畑が行われ、ミツマタやそば、麦などを栽培していたと案内しています。焼畑の跡に何を何年目に作ったかという順序は、今回読めた資料では確かめられませんでした。

寺川と中久保――四国山地の焼畑の比較

相馬正胤は、椿山に近い四国山地の焼畑の村を二つ調べています。相馬(1959)が取り上げた高知県の寺川(橋尾(2001)の表記では土佐郡本川村寺川)は、吉野川の最上流に沿う17戸の村で、標高1,000メートルを超える針葉樹林帯の斜面でヒエを主作物とする焼畑を営んでいました。寺川は、橋尾(2001)が椿山と比べる相手に選んだ焼畑の集落でもあります。

抄録によると、相馬(1959)は、寺川の焼畑は藩政初期から、国境の山村を維持するため土佐藩が自給の手段として奨励したことで発達したとしています。初期の焼畑では、村の近くの耕地は各戸に割り当てられ、焼畑に使う広い林野は共有されていました。焼畑は約3年続けて作り、約40年休ませるもので、作付けの間は農家が4月から11月まで畑に移り住んだといいます。

相馬は、寺川には地形のため水田が無く、1戸あたりの常畑は平均0.2エーカー(抄録の英文の表記)で、焼畑が自給の農業として非常に重要であり、焼畑の主作物は今もヒエだと報告しました。

相馬(1956)は、愛媛県の中久保の焼畑と土地所有の関係を調べました。抄録によると、中久保では約70年前にミツマタが導入され、焼畑と深く結びついて栽培されました。土地利用の移り変わりは「林野→焼畑(トウモロコシ・豆・麦)→ミツマタ畑→造林地」と整理され、造林が進むにつれて焼畑とミツマタ畑の面積は減っていったと相馬は書いています。

葉を茂らせたミツマタの木
ミツマタの木(他地域の参考写真)。和紙の原料として知られ、四国山地では焼畑の跡に植えられた(写真:掬茶/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

ミツマタ――焼畑のあとに育てた和紙の原料

ミツマタは、コウゾと並ぶ和紙の原料です。林業経済の研究者の恩田英子(1995)は、明治維新以降の急激な貨幣経済の中で、高知県の山村の転換を支えたものの一つがミツマタとコウゾだったと書いています。高度成長期より前、両者は山村経済を支える重要な換金作物で、高知県の中央山間部で広く栽培されていました。

恩田(1995)によると、高度成長期以降は和紙産業の衰退や代替品の増加、労働力不足などで需要が激減し、のちには輸入材が主流を占めるようになりました。田中求(2014)は、高知県いの町柳野地区の事例から、ミツマタは焼畑で栽培されてきたが植林によってほぼ消滅したと報告しています。

椿山でも、観光協会の記述のとおり、ミツマタは焼畑で作られた作物の一つでした。椿山のミツマタがどこへ出荷され、いつまで作られていたかは、今回読めた資料では確かめられませんでした。

緑の葉を背に、赤い葯の白く小さな花が房になって咲くソバ
白い花をつけたソバ(他地域の参考写真)。ソバは椿山の焼畑でも作られ、ソバ粉の団子が毎日の主食の一つだった(写真:京浜にけ/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

雑穀とイモの食卓――橋尾直和の聞き取り

調査の方法

椿山の食を、言葉の側から調べた研究があります。高知女子大学の橋尾直和(2001)は、1998年に発足した高知女子大学の中山間地域総合研究プロジェクトの一員として、椿山の生活語文化を3年かけて調べ、そのうち食生活に関わる言葉をまとめました。

調査は1999年12月と2000年1月・5月・11月の延べ1週間、1918年生まれの女性への聞き取りで行われました。橋尾によると、この女性は夫とともに20数年前まで焼畑農業を営んできた人です。質問は、檮原の食を記録した坂本正夫(1986)の表を下敷きにして、「主材料」ごとに料理の名前、食べ方、食べる時期、日常食・間食・晴食(ハレの日の食事)の別、頻度を、戦前と現在の両方について尋ねるものでした。

戦前の毎日の主食

橋尾(2001)の表によると、戦前に一年中「毎日のように食べる」ものは、ムンギメシ(大麦・小麦)、ハンバク(大麦・小麦)、ヒエメシ(稗)、キビメシ、ソバンダンゴ(蕎麦)、それに味噌(ミソ・オミソ)と醤油(ショーユ)でした。ムンギメシは戦前は小豆を混ぜて炊き、ハンバクは白米を混ぜて炊いたと記録されています。

キビメシは「粒をすり割ったキビと、あら炊きしたハダカムンギを混ぜて炊いた」ものです。ヤキキビは秋に毎日のように食べる日常食でした。「中くらい」の頻度では、山へ行くときの弁当にしたイリモチ(フライパンのような鉄鍋で作る)、ソバ粉にはったい粉を入れたンゴキネリ、ハイヤケンダンゴなどがありました。ハイヤケンダンゴについては、台風になぞらえて「ハイヤケンダンゴ吹かにゃー食えん」と言ったと記されています。

アワは、アワメシ・アワモチ・ヨモンギモチのいずれも「ごくまれ」の頻度でした。白米のンゴハンも、戦前は「ごくまれ」です。白米を使う料理は、ごくまれな日常食のオカユのほかは、スシ(ンゴモクとも言い、芋の茎や椎茸、大根、ごぼうなどが入ったばら寿司)や赤飯、正月と神祭の時につく餅など、ハレの日のものが中心でした。

白と橙色の刺身こんにゃくと小鉢の酢みそ
刺身こんにゃくと酢みそ(他地域の参考写真)。こんにゃくは椿山で冬から春にかけてよく作られ、高知県の山間部では酢みそを添えて刺身の代わりにすると報告されている(写真:woinary/Wikimedia Commons・CC BY-SA 2.0)

コンニャクとイモの料理

椿山では、コンニャク(蒟蒻)が冬から春にかけてよく作られました。橋尾(2001)の表には、コンニャクを使う料理として、レンガク(田楽)、シラアエ(豆腐と蒟蒻の白和え)、ニシメ(大根・昆布・ゴボウ・豆腐なども入れる)が並びます。いずれも戦前・現在とも冬から春の日常食で、頻度は「中くらい」で変わっていません。

イモでは、さつまいも(カライモ)を生のまま、または茹でて干したホシカ、茹でて干したインデボシカ、ホシカモチ、イモモチがありました。田芋(タイモ)や茎芋(クキイモ)のレンガクは「囲炉裏でよく食べた」もので、イモジルは味噌・蒟蒻・鶏肉などを入れて、オトゥユ・イモンダキとも呼ばれました。

橋尾は、材料が田芋・茎芋でも蒟蒻でも「レンガク」という一つの語で言い表していることを、言葉の形式と内容の関係で興味深い点として挙げています。

一日四度の食事と呼び名

橋尾(2001)は「食制呼称」、つまり食事の回数と呼び名も尋ねています。戦前は一日4回で、6〜7時がアサメシ、9時は特に名称が無く、14時がオヤトゥ、19時がユーハンでした。時間の決まらない食事として、オヤトゥとアインダングイという呼び名があったといいます。こうした食事の形は戦前までで、現在はアサンゴハン、ヒルンゴハン、ユーハンと呼ばれています。

白米の食卓へ

戦前と比べて現在(2000年ごろ)は、どう変わったのか。橋尾(2001)の表では、戦前は毎日のように食べていたムンギメシ、ハンバク、ヒエメシ、キビメシ、ソバンダンゴは、いずれも現在は食べていません。かわって白米のンゴハンが「ごくまれ」から「毎日のように食べる」ものになりました。

トーフ(豆腐)とショーユは、戦前も現在も毎日のように食べるものです。ただしトーフは、戦前は冬だけのものが、現在は一年中になりました。トーフは「昔は作って食べていたが、今では週に1回買って食べる程度」とも記されています。ミソ、ヤキキビ、レンガクは「毎日のように」から「中くらい」へ、ホシカとインデボシカは「中くらい」から「ごくまれ」へ減りました。

椿山の毎日の食事を戦前と2000年ごろで比べ、麦や稗の主食が白米に替わったことを示した図
椿山の毎日の食事の昔と今。橋尾直和(2001)の表のうち、戦前と現在(2000年ごろ)に「毎日のように食べる」とされた品目を並べたもの(図:水のソムリエ編集部作成)

「方言呼称は保守的」――橋尾の結論

橋尾(2001)は、椿山の食生活語文化は、戦前の雑穀類・豆類・芋類から戦後の白米中心へ大きく変わったとまとめています。戦前は手作りが中心だったのが、現在は買って食べるものが多くなり、餅・小豆・砂糖などは戦前は手に入りにくい貴重品だったが、いまは日常食として食べられるようになった、とも書いています。

一方で橋尾は、言葉の側では語形の変化は観察されなかったと報告しました。ガ行・ダ行の前の鼻音や、共通語の「つ」を「トゥ」と発音することなどは、戦前も現在も変わっていません。橋尾は、食生活の形は変わっても方言の呼び名には保守的な力が働いているように思えたとし、話し手がいなくなれば消える可能性の方が大きいとも述べています。

高知県の家庭料理の中の山の食

日本調理科学会の「次世代に伝え継ぐ 日本の家庭料理」研究では、昭和30〜40年代の高知県の食事について聞き取り調査が行われ、山間部・沿岸部・平野部の違いが報告されています。

福留奈美ら(2018)は、高知県の主菜を調べ、山間部では葉にんにく入りの緑色の酢みそ(ぬた)を、厚揚げや焼き豆腐、樫豆腐、こんにゃくなどに添えて、精進の刺身の代わりにして食べると報告しました。猪や兎など狩猟による獣肉の利用が山間部や平野部でみられたことも記しています。

野口元子ら(2019)は副菜について、大豊町や梼原町などの山間部を中心に、いたどり、ぜんまい、たら、ふきなどの山菜を使った副菜が多く、塩漬けや乾物にして年間を通じて使う工夫がみられたと書いています。野口ら(2021)は皿鉢料理を取り上げ、山間部ではタケノコやミョウガ、コンニャクなどの山菜ずしが多く入る一方、サバの姿ずしは県内全域で祝いの席に欠かせない料理になっていると報告しました。

福留ら(2022)は、1980年代に刊行された2冊の料理書を旧市町村別に分析し、山間部では山菜・野菜が主の料理が多く、いも類、豆・豆製品の料理も多様だったとしています。椿山の聞き取りに出てくるイモ、豆腐、こんにゃくの料理は、この県全体の傾向の中に位置づけることができます。

平家伝説と太鼓踊り

安徳天皇と氏仏堂の伝承

中内の研究によると、椿山には、文治の昔(1185年)壇ノ浦の戦いに敗れて安徳天皇を奉じた平家の一行、総勢80余人が阿波へ逃れ、土佐に入り、物部村、本川村(現在のいの町)を経てこの椿山に安住の地を求め、3年の歳月を過ごしたという伝説が残っています。これを裏付けるように国王山、王人、弓場といった地名が残り、椿山に先導した平家一族の滝本軸之進が椿山氏の祖となったと伝えられます。

集落の中心にある地蔵堂は「将軍地蔵」を本尊とし、氏仏堂と呼ばれて、滝本軸之進の子孫を名乗る地区の守護神として崇敬の中心となってきました。中内は、堂内に平家ガニをあしらった彫刻があり、厨子の下には安徳天皇が椿山を去るときに託した秘剣を納めたと伝わる「開かずの箱」が置かれていると記しています。これらはいずれも伝承として紹介されているもので、史実かどうかは今回の資料では確かめられません。

太鼓踊りの所作

仁淀川町教育委員会によると、椿山の太鼓踊りは、氏仏堂で安徳幼帝の子守歌として、また平家の武将や公達(きんだち)の霊を慰める祭りとして毎年古式どおりに奉納され、数多くの伝説とともに椿山の人々に受け継がれてきたものです。平成3年に旧池川町の無形文化財に指定されました。高知県の無形民俗文化財の一覧表には、仁淀川町からは池川神楽などが載っていますが、椿山の太鼓踊りは載っていません。

踊りは、数人の男性の踊り手が饅頭笠をかぶり、腹に大きな締め太鼓を乗せて輪になり、歌に合わせて真っ白い房の付いたバチでリズムをとりながら、ゆっくりと巡るものです。教育委員会は、一見単調に見えるが、両手に持つバチの調子一つ狂うと踊れない繊細さを持つと書いています。踊りには「念仏踊り」「あやの踊り」「さんばれ」「敦盛踊り」「御所踊り」などがあります。

中内の研究は、踊り手がたき火を囲み、直径70センチほどの締太鼓を前にかけ、鉦を調べとして、こぶしの木を薄く削った白いシデ房を付けた両撥で太鼓を叩きながら踊ると記しています。頭上に振りかざした撥の白いシデ房が手足の運びより1拍遅れて揺れ落ちる、とも書かれています。

土佐の念仏・風流系の芸能の「踊り」について、舞踊学の山田敦子(2001)は、各地の踊りの具体的な動き方を記した文献が極めて少ないと指摘し、足の所作に着目して比べる研究を試みました。椿山の太鼓踊りの足の運びがどう記録されているかは、今回の資料では確かめられませんでした。

虫送りと奉納の日

太鼓踊りが奉納される行事の一つが、6月の虫送りです。観光協会によると、虫送りは、平安時代に斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)が源義仲に敗れ、その亡霊が稲の害虫になったという言い伝えから、供養と豊作を祈ったことが起こりといわれています。観光協会の観光ページは、この行事を「約600年以上も続く」と紹介しています。

2024年の椿山虫送りは6月20日に行われ、12時から氏仏堂の中で神事、13時から太鼓踊りという予定が告知されました。会場は椿山百花堂(氏仏堂)、参加費は無料、連絡先は仁淀川町教育委員会です。観光協会によると、6月の虫送りでは氏仏堂だけでなく地区内を回り、急な坂を下って谷に行き、そこでも太鼓踊りが奉納されます。

奉納の日取りは資料によって違います。教育委員会のページ(2012年掲載)は、毎年8月3日・4日・14日、9月5日、6月20日(虫供養)と書いています。観光協会のページは年4回とし、6月、8月、9月に行われ、8月は氏仏・若仏祭と盆供養があって、8月の盆供養と9月の奉納は夜に行われると案内しています。中内の研究は年5回としています。

踊りを伝える人たち

教育委員会は、かつては何十人もいた踊り手たちも、山間地域の過疎化と高齢化のため数名となり、太鼓踊りを伝える者も少なくなっていると書いています(2012年掲載)。

中内の研究によると、椿山太鼓踊り保存会は昭和43年に、踊りの保持者が少なくなって途絶えるおそれがあったため結成されました。調査の時点で伝承には14名程度が従事していましたが、保存会や青年団の中に椿山で暮らしている人はいなかったといいます。踊りは元は親から子へ、踊りを見る中で自然に受け継がれてきたもので、いまは町役場と協力して伝承していると中内は書いています。住民が1人になってからも、太鼓踊りはUターンする元住民や氏子をつなぎとめる場になっている、とも記されています。

数字で見る変化

椿山の戸数と人口

椿山の戸数と人口を同じ方法で数えた長期の統計は、今回読めた資料には見つかりませんでした。資料ごとの数字を、出どころを分けて並べます。

これらは集計の方法も時点も違う数字で、比べて何割減ったと言うことはできません。

池川町と仁淀川町の人口

橋尾(2001)によると、2000年11月30日現在の池川町は1,186戸、人口2,483人(男性1,180人・女性1,303人)でした。合併後の仁淀川町のまちづくり計画によると、町の人口は平成2年以降減り続け、平成27年(2015年)に5,551人、世帯数は2,778世帯、1世帯あたり2.0人です。

同じ計画によると、平成27年の就業者に占める割合は、第1次産業12.1パーセント、第2次産業33.3パーセント、第3次産業54.6パーセントで、県全体と比べると第1次・第2次産業の割合が高くなっています。

川底の石まで透けて見える土居川の澄んだ流れ
仁淀川の支流・土居川の清流(仁淀川町・2017年10月)。台風が通り過ぎて5日目に撮影された、川底の石まで見える流れ(写真:谷本 一郎/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

この地域の水

大野椿山川から仁淀川へ

地理院地図で読むと、椿山の集落のすぐ東を大野椿山川が南へ流れています。川は大野の集落の下で、国道439号に沿って東西に延びる谷の川に合わさります。椿山の谷の水はこうして仁淀川の流れに加わっていきます。町は、仁淀川が愛媛県久万高原町に源を発し、長者川、土居川などの数多くの支流を集めながら太平洋へ注ぐと説明しています。

竹林の山を背に、青緑色の川の上に低いコンクリートの橋が岩の間に架かる
仁淀川にかかる沈下橋・久喜橋(仁淀川町・2018年9月)。椿山の谷の水もこの川に加わる(写真:谷本 一郎/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

国土交通省によると、仁淀川は石鎚山(標高1,982メートル)を源とし、愛媛県・高知県を経て太平洋へ注ぐ、幹川流路延長124キロ、流域面積1,560平方キロの一級河川です。流域の平均降水量は約2,800ミリで全国平均の約1.7倍と多く、全国有数の多雨地帯で、台風の常襲地帯にも位置しています。

雨の多い谷

椿山に近い気象庁の観測所・池川の年降水量の平年値(1991〜2020年)は3,016.4ミリです。いちばん多いのは9月の492.5ミリ、次いで8月の488.6ミリで、いちばん少ない1月は71.3ミリです。6月から9月までの4か月だけで年の半分以上が降ります。

中内の研究は、椿山は仁淀川の上流部にあたり、山の手入れが行き届かず山としての機能が低下すると、土壌の流出が起き、多くの町や地域に影響が及ぶと書いています。

いまの飲み水

仁淀川町によると、町の中心部には簡易水道が整備されていますが、水道が整備されていない地区も多くあります。簡易水道の無い地区では、集落単位で川や沢などから引いた水を給水タンクに貯め、そのタンクから各家庭に配水する場合が多く、タンクの定期的な清掃や設備の維持管理の費用が発生すると町は説明しています。

町の簡易水道事業の報告書によると、令和6年度の給水人口は2,716人、給水戸数は1,478戸で、有収率は94.0パーセントでした。椿山の家々がどの方法で水を得ているかは、公開資料では確かめられませんでした。

安徳天皇の伝承と湧き水

環境省の湧水保全ポータルは、仁淀川町の代表的な湧水として、別枝の「都の開都水(みやこのかいとすい)」、北川の「水の峠の湧水」、土居の「神母谷(いげだに)の湧水」を挙げています。都の開都水は都地区の主家川の源流で、平成18年に地区の有志が建てた碑には、壇ノ浦の合戦に敗れた安徳天皇がこの地に到着してこの湧水を発見し、ここを都と定めたという趣旨の文が刻まれているといいます。

安徳天皇がこの地に逃れたという伝承は、仁淀川の流域の別の場所にも残っています。越知町観光協会によると、仁淀川中流の越知町の横倉山にも、安徳天皇が隠れ住んだという平家伝説と、国が指定する安徳天皇の陵墓参考地があります。椿山の伝説とこれらの伝承の関係は、今回の資料では確かめられませんでした。

横倉山に湧く名水百選の「安徳水」を含む高知県の名水百選4か所は、「高知県の名水」で紹介しています。

行く・買う

椿山の太鼓踊りと虫送りの日程は、仁淀川町観光協会の観光サイト「によどがわ.TV」と仁淀川町教育委員会が案内しています。高知城歴史博物館は、地域展「仁淀川~流域の歴史と文化~」で椿山の記録映画を上映したことがあります。椿山への道は山間部の細い道です。出かける前に、町の道路情報と行事の日程を各公式サイトでご確認ください。

出典

一次資料(政府機関・公的機関の公表資料、研究論文、施設の公式サイト)。リンクの到達性は2026年10月15日に確認しました。J-STAGE の論文は、抄録を読めたものは抄録、読めないものは記事の1ページ目(J-STAGE が公開している画像)によります。研究論文・報告は、本文で「著者(年)」の形で参照しています。

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