ウトロ港と知床の山並みを背景に北海道の形を水色で重ねたアイキャッチ

昆布番屋と鮭の浜 知床(北海道)の漁と暮らし【水と地域文化】

北海道の東の端、オホーツク海に突き出した知床半島は、二つの町に分かれています。半島の北西側、オホーツク海に面するのが斜里町、南東側、根室海峡に面するのが羅臼町です。斜里町は、知床半島を羅臼町と二分していると町の紹介に書いています。

半島は1964年に国立公園に指定され、2005年には世界自然遺産に登録されました。けれども、この半島の海辺では、それよりずっと前から人びとが漁をして暮らしてきました。夏のあいだ岬の先端近くの浜に移り住んで昆布を採る家族があり、秋には鮭を定置網で獲る番屋がありました。

この地域の水(要約)

緑の斜面と岩壁の間を白く細く流れ落ちる滝
崖を落ちるセセキの滝(羅臼町・2014年10月)。山の水が短い距離で海辺まで下る(写真:pakku/Wikimedia Commons・CC BY 3.0)

詳しくは「この地域の水」へ

この記事の資料について

この記事では、明治の官庁調査、両町の公表資料、漁業協同組合と観光協会の公式サイト、国の会議資料、そして無料で読める研究論文だけをもとに、知床の漁と暮らしを書き留めます。現地での聞き取りや撮影は行っていません。研究の論点は「誰が、何を指摘したか」の形で示し、資料で確かめられなかったことは、そのつど書きます。

アイヌ文化に関わる事柄は、公的機関の資料と研究論文にある記述だけを、資料の表記どおりに紹介します。

半島の地形と二つの町

北海道の中の斜里町役場・ウトロ・羅臼(船見町)・知床岬の位置を示した地図。道東の知床半島にある
北海道の中の斜里町役場・ウトロ・羅臼(船見町)・知床岬の位置(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」、国土交通省「国土数値情報(行政区域)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

細長い羅臼町と、根室海峡

羅臼町の過疎地域持続的発展市町村計画(令和8〜12年度)によると、羅臼町は知床半島の東側にあり、南は植別川を境に標津町に接し、東に国後島を望み、北西は標高1,660メートルの羅臼岳を最高峰とする知床連山を境に斜里町と接しています。面積は397.72平方キロ、南北に約64キロ、東西に約8キロという細長い町で、町域の約95%が森林です。

海岸から急に高くなる地形のため平地が少なく、集落は川沿いと海岸沿いの平地にできています。半島の突端に向かって険しい海岸が続き、岬町が集落の東端で、その先の相泊から北は道路がなく、交通は海上輸送に頼るほかない、と計画は書いています。

同じ計画は、町名の「羅臼」がアイヌ語の「ラウシ」(獣の骨のあるところの意)に由来し、「ラウス」に転訛して名付けられたといわれている、と紹介しています。

明治の官庁調査も、同じ地形を書き留めました。北海道殖民部の『北海道殖民状況報文 根室国』(明治31〜34年刊)は、当時の目梨郡について、原名「メナシユ」は東風の意味で、東の海に面することから名付けられたと記し、川の流れは数多いが「皆急流ニシテ舟楫ノ便ナク」、海岸に段丘があるため、人びとは川口の低いところに集落をつくっている、と書いています。

羅臼だし――山を越える強い風

知床半島の山並みは、風も分けています。気候学の佐川正人(2000)は、羅臼付近で「羅臼だし」などと呼ばれる北西からの局地的な強風を、知床峠の観測資料とアメダスの記録から調べました。佐川は、半島のオホーツク海側よりも根室海峡側で風速が大きいこと、山列にほぼ直交する谷口にある羅臼の市街地付近でとくに強風になることを示し、発生の原因の一つとして、空気が山を越えて下るときの跳水(hydraulic jump)の可能性を挙げています。

町の計画によると、羅臼町の2024年の年平均気温は7.3度で、月平均では2月が最も低く氷点下5.3度、8月が最も高く19.9度。海の影響で寒暖の差は小さく、月平均の降水量は147.5ミリと、道東でも有数の多雨地帯です。

オホーツク海から見た知床半島の断崖。緑の崖が海に落ちる
オホーツク海から見た知床半島の断崖(斜里町・2014年8月)。山がそのまま海に落ちる海岸が続く(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

オホーツク海側の斜里郡

斜里町の紹介によると、斜里町の面積は737.13平方キロで、北に100キロを超える海岸線、東南に知床連山を擁する弓状の三角形の町です。農業・漁業・観光業が基幹産業で、小麦・甜菜・馬鈴薯の畑作と、オホーツク海を漁場とする漁業が営まれ、町はサケ・マスの水揚げが日本一だとしています。

町の「町のあゆみ」は、町名をアイヌ語のサルまたはシャルが転訛したもので、いずれも「アシの生えているところ」の意味だと説明しています。一方、明治の『北海道殖民状況報文 北見国』は、斜里の原名「サルシペツ」は茅が多いことから名付けた、と書いています。

同じ報文は、知床半島の側の斜里郡を「地形細長悉ク山地ニシテ平野ナク海岸ハ概ネ断崖絶壁ナリ」と書きました。郡は5村に分かれ、遠音別と朱円の2村が知床半島にありました。明治29年の郡の現住戸数は137、人員は520で、その8割以上が斜里村に住んでいたといいます。

報文によれば、斜里郡は昔は鱒を多く産して「斜里鱒」の名があったものの、次第に産額が減って鮭が主になりました。明治11年には遠音別村の硫黄山(知床硫黄山)の採掘が始まり、そのころから斜里村に来て漁業を営む者が現れたと書かれています。

ウトロ港の入口にある緑におおわれたチャシコツ崎
ウトロ港の入口にあるチャシコツ崎(斜里町・2011年9月)。崎の上に国の史跡チャシコツ岬上遺跡がある(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

岬の上の遺跡と、場所の時代

斜里町ウトロのチャシコツ岬上遺跡は、2019年2月26日に国の史跡に指定されました。文化庁の国指定文化財等データベースは、この遺跡を、オホーツク文化終末期を中心とする拠点的集落遺跡で、漁労や海獣狩猟を主な生業とし、独特の動物儀礼を行うなど列島北辺域の海洋適応民文化の内容をよく表すとともに、在地の擦文文化と融合して地域性の強いトビニタイ文化が形成される過程をも示す遺跡、と説明しています。

斜里町の「町のあゆみ」によると、寛政元年(1789年)に斜里アイヌから松前藩に対して交易船の派遣願いが出され、翌寛政2年(1790年)に宗谷場所から分かれる形で斜里場所が開設されました。文化4年(1807年)には北辺警備のため津軽藩士100余名が斜里に派遣され、寒地での越冬に慣れず、70数人が水腫病で亡くなったと町は記しています。

明治5年には斜里郡の村名が定められ、大正4年に5村が合併して斜里村に、昭和14年1月1日に町制が施行されて斜里町になりました。

昆布の浜――羅臼の生業

羅臼町の計画は、町の歴史を次のようにまとめています。漁場の開拓は江戸時代の安永年間に始まり、明治以降は富山県・石川県を中心とした移住者とともに漁場が開かれ、漁業を中心に発展してきた。明治34年(1901年)に植別村が分かれて独立し、昭和5年(1930年)に村名が羅臼に改められ、戦後は千島・樺太からの引揚者の受け入れなどで人口が増え、昭和36年(1961年)に町制が施行された、と。

明治の植別村

明治の『殖民状況報文』は、のちの羅臼町にあたる植別村を詳しく書いています。村は根室国の北端にあり、山嶺が海に迫り、海岸は多くが絶壁で、北へ行くほど険しくなる。明治28年の戸数は55、人口は238とされていますが、表向きは入稼者でも実際は土着している者が少なくないため、実際の戸口はそれより多い、と報文は注記しています。

主な集落は良牛川の河口の低地で、明治20年ごろには漁舎と数戸の移民があるだけだったのが、報文の時点で戸数およそ50に増え、郵便局や医師、寺、宿屋や湯屋もできていました。移民は南部・仙台・越後・秋田・加賀などの人が混じり、近ごろは越中から来る漁民が多い、と書かれています。

植別村の漁業は、鰊や鮭の建網が漁期だけ出稼ぎの漁夫を招くのに対し、鱈や大鮃(おひょう)を延縄で釣る「雑漁」は小さな漁民を土着させ、村を発展させた、と報文は分析しています。鱈・大鮃の漁船は明治29年に99艘を数え、その多くが村民の営業でした。漁場は南から北へと広がり、報文の時点で知床岬の南一里半のところに達していたといいます。

昆布漁の始まりと北上

羅臼の昆布漁の歴史は、知床羅臼町観光協会が作った展示解説文に詳しく書かれています。この解説文は、環境省の知床世界自然遺産地域の適正利用に関する会議の資料として公開されています。

解説文によると、羅臼町史には、明治38年(1905年)に羅臼産の昆布を大阪へ出荷したところ高値で売れ、しだいに採取する者が増え始めたとあります。初めて昆布番屋が建てられたのは明治42年、植別村の「ケンネベツ」だったと伝えられ、根室への海上輸送が確立したことで、羅臼の昆布漁業は大きく飛躍した、と解説文は書いています。

大正から昭和初期の昆布漁は、夏のあいだなら誰でもいくらでも採ることができ、家族で行うため定置網漁に比べて規模も小さくて済み、「一年を一月で暮らす…」といわれるほど割のよい仕事だった、と解説文は伝えます。植別村でも新しく加わる人がゆっくりと増え続け、昆布漁を行う漁家は半島を北上していきました。大正時代のはじめには知床岬の先端部、赤岩(あかいわ)地区まで昆布漁師が訪れるようになり、村の中心地も植別から羅臼周辺に移っていきました。

第二次大戦後の昭和24年(1949年)、村は国後島などからの引揚者・移住者を受け入れ、昆布漁の従事者は羅臼全村で375戸、操業船数は508隻になりました。このときはまだ、昆布漁は一家族につき操業船一隻という決まりは作られていなかったといいます。

断崖の下のわずかな浜に建つ緑の屋根の番屋
知床岬にもっとも近い番屋(斜里町側・2012年9月)。崖の下のわずかな浜に建つ(写真:Mamusi Taka/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

岬の先端、赤岩の番屋

展示解説文は、知床岬の先端部が「赤岩」と呼ばれ、遠浅の海に昆布がびっしりと密生する好漁場で、潮の流れが早く、実入りのよい昆布が採れたと書いています。先端にいくほどオホーツク海の気候の影響を受けて日照りがよく、石浜では昆布を10枚ほど重ねて干せたほどでした。ただし、移り住むには大変な労力が必要で、赤岩で昆布漁が行われるようになったのは大正時代に入ってからでした。

解説文が引く漁業者の回想(昭和42年の新聞記事)によると、1920年代(大正末期)ごろ、昆布漁に従事していたのは百戸余りで、番屋生活をする本格的な漁家は五十戸足らず、一地区に番屋は五軒足らずで、羅臼から一番遠い赤岩はたった四軒だったといいます。

最初の暮らしは、流木を寄せ集めてピラミッド型の小屋をつくり一月を暮らす、一時しのぎの生活でした。エンジンのない時代、赤岩までは櫓こぎの木造船「川崎船」を借りて向かい、風に乗れば8時間、運が悪ければ2日もかかる長旅だった、と解説文は書いています。戦後は操業船をひと家族一隻とする決まりができるほど昆布漁を始める人が増え、赤岩の昆布番屋は昭和24年に18戸、最盛期の1960年代ごろには56戸が立ち並びました。

羅臼町で漁業を営む夫妻も、かつて知床半島の突端部に近い赤岩地区で、夏の期間を昆布漁で過ごしました。博物館の研究報告で夫妻の所蔵品を報告した戸部千春(2008)は、夫妻が自分たちの歩んできた地元の漁業史を、漁具と生活民具を保存して将来に残そうと、体系的な資料の収集と保管整理に努めてきたと書いています。

番屋の暮らしでは、子どもたちも大事な働き手でした。解説文によると、先端部に向かう小・中学生は昭和39年(1964年)の時点で370人いて、通学の行き来の問題から10日ほど長い夏休みをもらっていた時代もありました。夏休み中は4人ほどの先生が連絡船で北上しながら各地区を2、3回訪れる「巡回指導」を行い、子どもたちを集めて青空教室を開いたといいます。

昆布の漁期は7〜8月で、収穫が終わると家族は番屋の扉や窓を釘で打ち付け、船や漁具を引き上げて帰り支度をします。同じく先端部で操業する定置網漁の番屋も、本格的な冬の前には市街地へ引き上げてしまう、と解説文は書いています。

知床岬の先端部・赤岩の昆布番屋の数を4つの時点で示した年表の図
知床岬の先端部・赤岩の昆布番屋の数。1920年代ごろ4軒、1949年18戸、1960年代ごろ56戸、展示解説文の作成時2軒(知床羅臼町観光協会の展示解説文の数字をもとに作図/図:水のソムリエ編集部作成)

番屋の変化――建築と生業の研究

1960〜70年代には、羅臼昆布のダンボール包装の開始、機械乾燥機の発明、養殖試験の成功などで、羅臼の昆布漁は大きく変わりました。岬の先端部では操業船の性能が上がって「日帰り組」が増え、赤岩で番屋暮らしをする家族は急速に減り、解説文の作成時には赤岩で昆布漁を行う家は2軒だけになっていました。

番屋の変化は、生活学と地理学の研究対象にもなっています。金子晋也・三木翔平(2018)は、羅臼町カモイウンベ地区で調査に応じた3軒の漁家の住まいを調べ、1980年代までに道路や電気などの基盤が整い、養殖や乾燥小屋といった生産の技術が近代化していたこと、近年は高齢化や後継者不足、海の環境の世界的な変化で社会の構造が変わってきたことを報告しました。3軒の住まいについては、より新しい番屋ほど耐久性の高い構造や外装材へ移り、居住する家族と働き手のプライバシーに配慮した間取りや、家電の利用の広がりといった生活の変化も見られた、と金子らは書いています(英文抄録による)。

地理学の伊原希望・白岩孝行(2025)は、1974年から2019年までの国土地理院の空中写真で北海道の沿岸全域の番屋を判読し、1974年に多数あった番屋の多くが2019年までに撤去・消失したことを示しました。一方、知床半島のオホーツク海側では、2024年の時点でも漁業用に使われる番屋が複数確認され、流氷や潮流、背後の急な地形という厳しい条件のもとでの漁業を支える空間として維持されている、と伊原らは報告しています。2005年の世界自然遺産登録以降、番屋が景観資源として見直される事例もあったといいます。

二十三の工程――羅臼昆布ができるまで

羅臼漁業協同組合の公式サイトによると、昆布は2年かけて育ちます。1年目の昆布はいったん根元を残して枯れ、その後急速に伸びて2年目の昆布になり、収穫されます。組合は、国産昆布の約9割が北海道産で、羅臼昆布はそのうち1〜2%しか採れない、と書いています。

浜と小屋の作業

組合が「羅臼昆布23工程」として公開している工程は、7月下旬から8月の昆布漁で2年ものの昆布を海底からねじりとることに始まります。海水で汚れを落とし、浜の玉砂利の上で2〜3日干し、昆布が玉砂利にへばりつかないよう少しずつ動かしながら根を切る。取り込むことを、浜言葉で「よせる」といいます。

そのあと昆布は乾燥小屋の乾燥機で仕上げられ、根の部分(頭)以外をむしろで覆って干す「頭干し」をします。日が落ちてから昆布を浜に並べ、夜露で湿らせる「湿りを入れる」作業があり、湿っているうちにシワを伸ばしながらしっかりと巻きます。

羅臼昆布ができるまでの23の工程を5つの段階にまとめた流れ図
羅臼昆布ができるまで(23の工程)。羅臼漁業協同組合「羅臼昆布23工程」の工程名と説明を、浜で干す・小屋で乾かし湿りを入れる・巻いてのばして寝かせる・日に当て形を整える・選んで出荷するの5段にまとめたもの(図:水のソムリエ編集部作成)

湿りと奄蒸

巻いた昆布は一晩置き、伸ばしてから重石をのせて熟成させます。この熟成を、組合の工程表は「奄蒸(あんじょう)」と書いています。天気のよい日に干す「日入れ」、もう一度の頭干し、重石をのせる奄蒸を重ね、昆布の両側を切って形を整える「ヒレ刈り」、格子状に積む奄蒸を経て、ヒレと頭を箱に詰めます。最後に昆布を1枚ずつ30以上の規格に選別し、規格どおりに箱に詰めて色テープをかけ、製品検査を経て全国へ出荷する、というのが23の工程です。

組合の公式サイトは、羅臼昆布の等級が色・厚み・形状・長さなどで1〜5段階に分けられ、紐の色で一等は青、二等は赤、三等は紫、四等は茶と見分けられると説明しています。組合は、乾かした昆布を夜露にさらす「湿り」の工程が旨味を引き立てているのではないかという仮説を、成分の調査とあわせて紹介しています。

製法が決まったのは昭和の初め

現在のような手間のかかる製法は、昔からのものではありません。展示解説文によると、羅臼の昆布は製品になるまでに20以上の工程を経ますが、その方法は大阪市の昆布商同業者組合の会長だった商店主の強い依頼によって1930年代ごろに確立されました。昆布漁師の一人はそれ以前の作り方を「原始的」と言っており、それまではヒレ刈りも念入りなしわ伸ばしも行われていなかったようだ、と解説文は書いています。

解説文が引く昆布漁師の談話(村田吾一「昆布古記」『知床のすがた』)では、昭和7年(1932年)に大阪の昆布商を訪ねたところ、製法の改良の話が繰り返し出て、とりあえず「シワノシ」と尾ヒレの赤葉を取ることを約束できれば三割方高値に引き取ると言われ、帰ってから組合などに話したところ役員も乗り気になり、道庁の許可を得て大阪での人気も上がった、と語られています。昆布の採れる浜と、昆布を使う大阪の商いが、羅臼昆布の形を決めたことになります。

鮭と鱒、定置網の浜――斜里と羅臼の漁業

プユニ岬から見たウトロの港と温泉街、奥に続く海岸線
プユニ岬から見たウトロの港と市街(斜里町・2011年9月)(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

定置網と季節の移住

地理学の伊藤久雄(1958)は、1950年代のオホーツク海沿岸の水産業を地域ごとに整理しました。伊藤によると、定置漁業はさけ・ますが主で斜里と標津が卓越し、とくに斜里のウトロは定置漁業に依存して、漁期にはウトロから北の知床岬までのあいだに季節的に移住して操業していました。共同漁業ではこんぶ採取に特色があり、こんぶは岩石海岸の稚内と羅臼が生産地域をなし、羅臼ではこんぶ採取期に知床半島北部への季節的移住が行われていた、と伊藤は書いています。

伊藤はまた、漁獲物の種類が多く生産の多い地域として、多角的経営を行う羅臼と、沖合漁業に主体を置く網走・紋別などを挙げ、オホーツク海沿岸の水産業は東部が岩石海岸を漁場とする沿岸漁業、中部と西部が大陸棚を漁場とする沖合漁業に主体を置く、とまとめました。伊藤(1964)は北海道全体の漁業を5つの地域に区分し、この区分は5種の昆布の生産地域とほぼ一致する、と述べています。

高台から見下ろした羅臼の港。防波堤の内側に漁船が並ぶ
羅臼の港。防波堤の内側に漁船が並び、沖に根室海峡が広がる(2014年10月)(写真:pakku/Wikimedia Commons・CC BY 3.0)

斜里町の「町のあゆみ」によると、明治23年に斜里川が共同の鮭漁場として漁業権を受け、明治32年にはサラパ川上流に人工ふ化場が設けられ、明治36年には斜里川のほとりに鮭・鱒の共同缶詰所ができました。戦後、昭和22年からは公共事業として魚田開発が進められ、漁港施設の拡充とともに、斜里の漁業はサケ定置網漁業を中心に伸びてきた、と町は書いています。

番屋と川と飲み水

伊原希望・白岩孝行(2026)は、知床半島のオホーツク海側の先端部にあったサケ・マス番屋の一棟を、所有する漁業会社が提供した1960年代以降の写真、タイムラプスカメラやドローンの画像、利用経験者の聞き取りなどから調べました。この番屋は1990年代後半に落石で倒壊し、その後廃棄されましたが、目の前の湾に定置網の漁業権が設定され、漁の効率を追求して建てられたものだったといいます。

伊原らは、番屋の近くに山から流れ込む川があり、飲み水を得やすい立地だったことも確認しています。番屋の中には寝具や作業棚が備えられ、共同生活の空間でもあったこと、聞き取りからは、この番屋が今もこの地域の漁業を象徴づける場所として認識されていることが示唆された、と報告しています。

魚の城下町の水揚げ

羅臼町の計画は、町の地域経済が沿岸漁業で発展し、スケトウダラやサケ・マス、昆布などの漁業と、その加工・流通が雇用と生計を支えてきたと書き、こうした水産業は町の文化や歴史、行事にも深く根付いてきた、としています。

ただし、主要魚種のスケトウダラ漁を中心に平成2年(1990年)に253億円の水揚高を記録したのを境に、水揚げは急激に落ち込みました。その後、秋サケの豊漁で定置漁業が台頭し、イカの豊漁で平成19年に152億円まで増えた年もありましたが、平成29年以降は水揚量が激減したと計画は書いています。昆布などの海藻も重要な漁業資源であると同時に魚の産卵・育成の場で、磯焼けによる藻場の減少が懸念されている、と計画は記しています。

羅臼町の計画は、町内の7つの漁港を挙げ、土地の少ない羅臼では海岸全域が昆布漁をはじめとする漁業生産の場として使われていると書いています。

漁業社会の道具――マキリ鞘

知床の漁業社会の歴史は、道具にも残っています。斜里町立知床博物館の研究報告で、戸部千春(1993)は、博物館が収蔵展示しているアイヌ文化伝統の民具のうち、マキリ(小刀)とマキリシリカ(小刀鞘)を実測図で紹介し、近世末以降のマキリシリカの形態の変化を概観しました。

戸部(2008)は、羅臼町の漁業者が所蔵する2点のマキリ鞘を報告しています。その一つは、細密な彫刻紋様を木の鞘の全面に施した一木造りのもので、戸部は、知床博物館の所蔵品と大きさや中心の意匠などの特徴が共通することから、2本は同一人物が製作したものと判定し、製作年代を19世紀後半と判定しました。比較の表では、羅臼の資料は知床半島の東岸(羅臼町)、斜里の資料は西岸(斜里町)で使われたもので、両者の漁場は隣接して連続しているとされています。

戸部は、紋様のない鞘についても論じました。近世の場所請負制度のもとの「場所」から続く北海道の漁業社会では、小刀は労働作業に不可欠で、常に身に帯びるための鞘だった、と戸部は書いています。そのうえで、こうした無紋の鞘は、アイヌ民族と和人の漁業労働者がともに生活する漁業社会で、主にアイヌ民族の男性によって製作されたが、使用者はアイヌ民族の男性に限らず、むしろ和人の漁師が多かったように思う、と戸部は自らの見方を述べています。

この記事では、鞘の紋様の意味づけには立ち入りません。2点の鞘が、知床半島の東西の漁業社会で使われた道具として、羅臼の漁家と斜里の博物館に残されていることを記すにとどめます。

食卓の昆布と鮭

北海道の家庭料理の記録

日本調理科学会の特別研究「次世代に伝え継ぐ 日本の家庭料理」では、北海道を道央・道南・道北・道東の4地域に分け、昭和30〜40年ごろまでに定着した家庭料理の聞き書きが行われました。宮崎早花ら(2018)は、北海道の主菜は魚介類の利用が最も多く、なかでも鮭が全域でさまざまに利用され、石狩鍋や飯ずし、汁物への利用に特徴がみられたと報告しています。

坂本恵ら(2021)は行事食をまとめ、北海道では正月料理を大晦日に年取り膳として食べる家庭が多く、全道的には身欠き鰊の「昆布巻き」、鮭の「氷頭なます」や「いくら」、地域の魚や野菜を使った「飯ずし」などが作られていたと報告しました。佐藤恵ら(2019)は、副菜では海藻の利用は多くなかったが、北海道特産の昆布が昆布巻きとして調理されていたと書いています。宮崎ら(2022)は、海藻では北海道特産の昆布が煮物として親しまれたとまとめています。

花柄の白い器に盛られた、つやのある橙色のいくら
器に盛ったいくら(他地域の参考写真)。北海道の行事食の報告に鮭の「いくら」が挙がる(写真:KQuhen/Wikimedia Commons・CC0)

これらの報告は北海道全体を4地域に分けた調査で、斜里町や羅臼町の家庭料理を個別に示したものではありません。両町で同じ料理がどう作られてきたかは、公開資料では確かめられませんでした。

昆布の生産と、使われ方

調理学の福留奈美・吹田勝良(2022)は、主なだし用昆布として真昆布・利尻昆布・羅臼昆布・日高昆布などを挙げ、昆布の生産量と消費量が右肩下がりに減る一方で、価格は上昇傾向にあり、生産者の減少がかなり深刻であることを、統計を示して論じています(記事の1ページ目による)。

地理学の遊佐順和(2016)は、昆布は全国の9割以上が北海道で生産され、北海道の主な食用の昆布には真昆布・利尻昆布・羅臼昆布・日高昆布・長昆布・細目昆布の6種類があり、産地の生育環境の違いから品種ごとに形状や食味、出荷先、調理用途が異なると整理しました。そのうえで遊佐は、北海道は日本一の昆布の生産地でありながら道内の消費量は多くないこと、生産量の減少の背景に自然環境の変化と、高齢化や後継者不足による昆布漁師の減少があることを指摘しています。遊佐(2018)は、北海道の昆布が昆布の採れない日本各地で多様な食文化をもたらしてきたことを、北前船の寄港地という歴史的背景とともに論じました。

昆布とアイヌの暮らしの関わりについては、川井唯史・四ツ倉典滋(2012)が、江戸時代中期から明治初期のアイヌ絵や北海道教育委員会の報告書をもとに、アイヌの人びとが夏に小さな木の舟から長い木の棒を使って昆布を採っていたこと、とくに日高・釧路地方では明治末から大正にかけて浜で干した昆布を粉にして食べていたことを報告しています(英文抄録による)。この報告は日高・釧路地方についてのもので、知床について同じことがいえるかは確かめられませんでした。

祭りと観光――自然遺産の町の今

浜の祭り

知床羅臼町観光協会のイベント案内によると、羅臼町では7月1〜3日に漁業の町を守る羅臼神社の例大祭が行われ、漁業者の多い羅臼町には氏子も多く、町の祭りとして定着しています。7月下旬から8月上旬の「しれとこ羅臼こんぶフェスタ」は、羅臼道の駅裏の「本町通り」の活性化と羅臼昆布の普及をテーマに2014年から開かれている新しい祭りで、本物の漁船と道具を使った昆布漁体験や加工の実演が見どころです。2024年には第8回が開かれました。

同じ案内には、漁協女性部などが中心となって羅臼産海産物の手づくり加工品を売る9月上旬の秋まつりや、漁業者の母さんたちが作った品を月1回売る「かあちゃんのごっこ市」も並びます。羅臼町の計画によると、町に大きなにぎわいをもたらしてきた「知床開き」と「漁火まつり」は、担い手不足などから令和5年度で最後となり、令和6年度から行政・関係団体・地域住民の実行委員会方式で「知床らうす産業祭 羅来楽(ららら)」が開かれています。

斜里町側では、知床斜里町観光協会のイベント案内に、厳冬期の知床五湖エコツアー、しれとこ産業まつり、友好都市の青森県弘前市との文化交流の中から始まったと書かれた「しれとこ斜里ねぷた」などが並んでいます。

国立公園と自然遺産のあいだで

展示解説文によると、1964年の国立公園指定は、地元の陳情ではなく国の自然公園審議会側からの直接の指名で、赤岩を含めた知床岬の先端部は特別保護地区に指定されました。羅臼をロケ地とした映画(1960年公開)の影響や、網走〜ウトロ〜羅臼間の観光船の巡航の開始などで、観光地として活気を帯びていった、と解説文は書いています。

1980年代にはウトロ側で国有林伐採への反対運動を契機に「しれとこ100平方メートル運動」が広がり、2005年の世界自然遺産登録につながりました。斜里町によると、この運動は昭和52年に国立公園内の民有地を買い上げる形で始まり、平成9年に当初の目的を達成して「100平方メートル運動の森・トラスト」に引き継がれました。解説文は、自然を守る一方で、赤岩での賑やかな生活の歴史が「静寂な原生自然」というイメージに置き換えられようとしている、と書き、知床羅臼町観光協会が2014年から元赤岩住民らの伝承をもとに羅臼昆布の歴史・文化を伝えるエコツアーを開いていると紹介しています。

笹原の上を延びる木の高架の遊歩道と、その奥にそびえる緑の山並み
知床五湖の高架木道と羅臼岳(斜里町・2014年8月)。斜里町側の観光協会の案内には、厳冬期の知床五湖エコツアーが並ぶ(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY 2.5)

知床のエコツアーは研究の対象にもなってきました。平井純子(2012)は、エコツーリズムの考え方にもとづくエコツアーが早くから行われてきた知床を対象に、冬季にスノーシューのツアーを実施する5団体に同行してエコツアーガイドの現状を調べています。小野有五(2006)は、知床を世界遺産候補地として国内で決める過程にアイヌ民族がまったく関与できず、アイヌ民族の団体がIUCN(国際自然保護連合)に参画を求める要請を行った結果、IUCNが、アイヌ民族がエコツーリズムを通じて管理計画に参画することが重要であるという勧告を出した経緯を分析しています。

観光学の尾鷲那月(2020)は、2019年2月に冬の知床で体験と聞き取りを行い、羅臼で乗った観察船が水産高校の小型実習船として使われていた漁船だったこと、羅臼の沿岸は斜里側に比べて流氷が薄いため砕氷船ではなく漁船が使われていることを報告しています。

数字で見る変化

明治、戦後、現在。出どころの違う数字を、違いを明記したうえで並べます。

明治の『殖民状況報文』では、植別村(のちの羅臼町)の明治28年の戸数は55、人口238で、報文自身が実際の戸口はそれより多いと注記しています。斜里郡は明治29年の現住戸数137・人員520でした。単位は「戸」と「人」です。

羅臼町の人口は、計画によると、国勢調査で昭和40年(1965年)の8,931人が最も多く、平成17年(2005年)には6,540人になりました。昭和55年から平成17年までの25年間で17%以上減ったため、平成22年4月1日に初めて過疎地域に指定されています。住民基本台帳では令和2年4月に5千人を割り込み(4,676人)、令和6年は4,285人です。国勢調査と住民基本台帳は集計の方法が違うため、直接には比べられません。

斜里町の住民基本台帳(令和8年9月30日現在)では、日本人の人口が9,707人、外国人が482人です。このうちウトロの5つの行政区(ウトロ東・ウトロ西・ウトロ香川・ウトロ中島・ウトロ高原)を合わせると、日本人925人、外国人120人になります。

羅臼町の計画の漁業生産の表では、こんぶの数量は令和元年に183トン、令和4年に285トン、令和6年に100トンでした。同じ表で、秋さけの数量は令和元年2,008トン、令和6年4,241トンです。年ごとの振れ幅が大きく、どちらも傾向を一言ではいえません。

観光客数について、尾鷲(2020)は両町の統計を引いて、平成30年度に斜里町には年間1,140,221人、羅臼町には509,653人が訪れたと書いています(尾鷲 2020 による引用)。斜里町は自らの紹介で、年間約100万人の観光客が訪れるとしています。

羅臼の市街を流れる羅臼川の早瀬と、両岸の草地
羅臼の市街を流れる羅臼川(2013年7月)。急な谷から海へ下る短い川(写真:Highten31/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

この地域の水

急流の川と、飲み水

知床の水の話は、短く急な川から始まります。明治の『殖民状況報文』は、植別村には植別川・ルクシユベツ川・シユムカルコタン川・良牛川など多くの川があり、「悉ク急流ニシテ水質清澄飲料ニ適ス」と書きました。目梨郡の川については「皆急流ニシテ舟楫ノ便ナク」、ただ忠類・薫別などの川で木材を流し下せると記しています。

同じ報文には、鮭のための人工孵化場が目梨郡の川に設けられていたことも書かれています。明治25年に創設された忠類川の孵化場について、報文は、この川は昔は鮭がさかんにさかのぼったが近年著しく減った、と記しています(忠類川は現在の標津町の川です)。植別村の良牛川にも組合の孵化場がありました。

斜里側では、斜里川について報文が、昔からしばしば河口を変え、明治7年までは現在の位置からおよそ300間東に注いでいたが、同年秋の洪水で砂丘が崩れて今の河口が開けた、と伝えています。

番屋の暮らしも、川の水に支えられていました。伊原・白岩(2026)が調べた岬の先端部のサケ・マス番屋は、山から流れ込む川が近くにあり、飲み水を得やすい立地でした。

流氷と海

知床の海には冬、流氷がやってきます。尾鷲(2020)は知床自然センターの展示パネルを引いて、アムール川の淡水がオホーツク海に流れ込むことで表面から深さ約50メートルまでが塩分の薄い水で覆われ、そこがシベリアからの寒気で冷やされて凍り始め、流氷ができる、という説明を紹介しています(尾鷲 2020 による引用)。尾鷲によれば、流氷は例年1月下旬ごろ知床に漂着します。

羅臼漁業協同組合は、流氷が海の生物の栄養となる植物性プランクトンをもたらし、山々から流れる雪解け水が知床の海をミネラルで満たす、と知床の海を紹介しています。羅臼町の計画によると、町の海洋深層水「知床らうす深層水」は、漁獲物の鮮度保持と衛生管理など漁業での利用が定着しています。

いまの飲み水

斜里町の令和8年度の水道水質検査計画書によると、斜里町の水道には浄水場が2か所あります。来運浄水場(昭和36年度通水)は猿間川の支流フカバ川の湧水を水源に、主に斜里市街地へ給水し、塩素消毒をしています。ウトロ浄水場(昭和39年度通水)はペレケ川の表流水を水源に、主にウトロ市街地へ給水し、膜ろ過をしています。令和7年度末の給水人口は、斜里町上水道が8,031人、ウトロ簡易水道が1,013人です。

同じ計画書は、来運浄水場の原水の汚染要因として流域の田畑で使われる農薬を挙げ、水質管理で注意する項目を記しています。斜里町の水道のページによると、北海道水資源保全条例にもとづき、来運地区にある水源地から半径1キロが水資源保全地域に指定されています。

羅臼町の計画によると、羅臼町の水道は3か所の浄水場から供給されていて、市街地区の浄水場は稼働から30年以上、峯浜地区と岬地区の浄水場は40年以上が経ち、施設や水道管の老朽化が進んでいます。令和6年度の上水道の給水人口は4,154人です。羅臼町の浄水場がどの川や沢から水を取っているかは、公開資料では確かめられませんでした。

水のソムリエの名水記事で、斜里町・羅臼町の湧水や名水を取り上げたものはまだありません。

行く・買う

しれとこ羅臼こんぶフェスタは、羅臼の道の駅の裏の本町通りで開かれます(知床羅臼町観光協会による)。斜里町には斜里町立知床博物館があり、この記事で紹介した研究報告を公開しています。知床横断道路(国道334号)は冬のあいだ通行止めになります。出かける前に各施設の公式サイトでご確認ください。

出典

一次資料(政府機関・公的機関の公表資料、研究論文、施設の公式サイト)。リンクの到達性は2026年10月15日に確認しました。J-STAGE の論文は、抄録を読めたものは抄録、読めないものは記事の1ページ目(J-STAGE が公開している画像)によります。研究報告・論文は、本文で「著者(年)」の形で参照しています。

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