引田の石垣と白壁の道に香川県と徳島県の形を重ねたアイキャッチ

砂糖と藍 讃岐と阿波(香川県・徳島県)の農村と水【水と地域文化】

香川県の東の端、瀬戸内海に面した東かがわ市の引田(ひけた)では、和三盆糖という砂糖が200年以上前からつくられてきました。徳島県の北東部、吉野川の下流に広がる藍住町(あいずみちょう)は、町名のとおり藍の一大産地でした。

讃岐の砂糖と阿波の藍。どちらも米ではなく、売って現金にかえる作物を軸にした農村です。そして、どちらも明治以降に大きな転換を経験しました。和三盆糖は今も引田で手作業でつくられ、藍住町の畑は藍からダイコン、そしてニンジンへと変わりました。

この記事では、二つの地域を一つの記事で取り上げます。同じ「換金作物の農村」でありながら、水の条件はまるで違うからです。雨の少ない讃岐はため池に頼り、阿波の藍住町は暴れ川と呼ばれた吉野川の氾濫と向き合ってきました。

この地域の水(要約)

徳島市の鉄橋から見た広い吉野川の流れと上流に架かる斜張橋
JR高徳線の鉄橋から上流側を望む吉野川(徳島県徳島市・2016年5月)(写真:そらみみ (Soramimi)/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

詳しくは「この地域の水」へ

この記事の資料について

二つの作物は、研究の歴史も長い土地です。讃岐の砂糖については、鎌田久明(1960)が幕末の搾屋(しぼりや)を、丸岡健次(1967)が藩の統計からサトウキビの植付面積の推移を、荒尾美代(2005)が「和三盆」の技術がいつ成立したかを史料から調べ、香川大学の松井年行(1993)や山中啓(1972・1976)が製糖の歴史と風味を書いています。

阿波藍については、後藤捷一(1960・1979)と天野雅敏(1977・2007)が藍商人の経営と明治の衰退を、川人美洋子(2010)と樫山昌史(2018)が今も続く染料づくりの工程を記録しました。水については、新見治(2004・2017・2026)が讃岐平野と吉野川の「水文誌」を、藍住町教育委員会の文化財保存活用地域計画(2024)が高地蔵や地神祭といった暮らしの文化を整理しています。

この記事は、こうした公開されている研究と、自治体・省庁・施設の公式サイトで本文を読める資料だけで書いています。現地での聞き取りや撮影にもとづく記述はありません。

讃岐の砂糖:引田と和三盆糖

播磨灘に面した港町――地形と立地

引田は、讃岐国の東の端にあります。萩野憲司(2014)によれば、引田浦は播磨灘に面し、讃岐国の東端に位置する湊町で、鳴門海峡を渡るときの潮待ち港として機能していました。嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』は、引田浦を「当国東第一の大湊」と評しています。江戸時代の中ごろから、引田浦は砂糖や塩といった讃岐国の特産品を積み出す港でした。

漁船が並ぶ引田港と播磨灘
引田港(2017年12月)。萩野(2014)によれば、引田浦は鳴門海峡を渡る船の潮待ち港で、砂糖や塩を積み出した(写真:岩佐栄三/Wikimedia Commons・CC0)

港の背後の地形は、砂糖づくりの条件でもありました。引田湾に注ぐ馬宿川(うまやどがわ)の流域で水質を調べた田村隆雄ら(2007)は、この流域では降水量が少ないために、川の水に溶けている物質の季節変化が見られなかったと報告しています。雨が少なく、川が小さい。それが讃岐の東端の水の条件です。一方で、海に近い引田の低地は、海からの災いも記録してきました。香川大学の寺林優ら(2025)は、引田地区の沿岸湖沼「大池」の湖底の堆積物を調べ、1707年の宝永地震では高松市や東かがわ市で高さ2メートル弱の津波の被害があったという古文書の記録があることを報告しています。

高松藩の時代、讃岐の主な産物は塩・綿・砂糖で、「讃岐三白(さぬきさんぱく)」と呼ばれました。山中啓(1972)によると、このうち綿の導入が最も早く、豊臣秀吉の朝鮮出兵のあとに日本へもたらされたもので、塩と砂糖はほぼ同じ時期に、五代藩主松平頼恭(よりたか)の殖産によって始まりました。砂糖は塩や綿に比べて新しい産業でしたが、藩の財政を支える点では重要だったと山中は書いています。

1804年に始まった砂糖づくり

東かがわ市教育委員会のふるさと教材によると、東かがわ市で和三盆糖がつくられるようになったのは1804年(文化元年)のことです。江戸時代の中ごろ、高松藩主が池田玄丈(いけだげんじょう)に命じて砂糖づくりをさせていましたが、よいサトウキビの苗が手に入らず、よい砂糖はつくれなかったといいます。

教材は続けて、弟子の向山周慶(さきやましゅうけい)が引き継いだころ、奄美大島から四国へお遍路の旅に来ていた良助(後の関良助)という人が病気で倒れ、向山周慶に助けられた話を紹介しています。その恩返しとして、良助が奄美大島の種きびを運んできたと伝えられています。届いたサトウキビを育て、研究を重ねて、今のような和三盆糖がつくられるようになったというのが、市の教材が伝える成り立ちです。

研究者の記述は、少し違う筋道を示しています。松井年行(1993)は、四国民家博物館研究所の桂真幸による古文書の調査(『日本糖業創業史』)を引いて、高松藩の五代藩主松平頼恭が宝暦11年(1761)に池田玄丈に製糖を命じたこと、玄丈が成功しないうちに明和3年(1766)に薬坊主となって糖業から離れたこと、そして讃岐の糖業の発端は東讃岐の湊村の民間の医師であった向山周慶によって開かれたことを書いています。松井によれば、向山周慶は天明6年(1786)に製糖法の伝授を受けようとして出かけ、そこで良助という糖業技術者とともに、サトウキビの栽培と砂糖づくりを寛政初年(1789)に成功させました。良助が「お遍路の病人」だったのか「糖業の技術者」だったのか。伝承と史料のあいだにある、この違いそのものが、和三盆糖の歴史の面白さです。

技術がいつ固まったかについては、荒尾美代(2005)が江戸の砂糖製造技術者荒木佐兵衛の史料を分析し、享和元年(1801)ごろには現在の「和三盆づくり」とほぼ同じ方法が確立していたことを明らかにしています。荒尾によれば、この方法は、糖蜜の抜けが足りないときの補助手段だった「押し」の工程とも、享保期以降に研究された「土を使う」方法とも違う、独立した製法でした。

その後の広がりは数字でたどれます。丸岡健次(1967)が藩の記録と香川県統計書から整理した表によると、讃岐のサトウキビの植付面積は、寛政2年(1790)にはわずか1町でしたが、天保7年(1836)に1,378町、慶応元年(1865)に3,807町、明治12年(1879)には6,827町に達しました。これがピークで、明治36年(1903)には799町まで減っています。搾汁車(サトウキビをしぼる装置)の数も、慶応年間の5,500から明治36年の1,518へと減りました。鎌田久明(1960)は、讃岐の糖業が寛政10年(1798)ごろから明治30年(1897)ごろまでの約100年間に急速に興り、そして衰えたとし、その担い手として大内郡湊村の搾屋A家の経営史料を紹介しています。

明治になって国内の砂糖産業がほぼ消えたあとも、四国だけに和製砂糖が残った理由について、山中(1972)は、この地方が一大産糖地帯だった伝統に加え、土壌がサトウキビの栽培に適し、良質の砂糖が生産されたためだと考えています。工場といっても年間稼働ではなく、農家の納屋に釜を据え、数人で分業している程度の規模だ、とも書いています。

白下糖を「研ぐ」

和三盆糖は、サトウキビを絞った汁を煮詰めてつくる、あめ色の白下糖(しろしたとう)からできています。市の教材によれば、盆の上で白下糖をといで粒を細かくし、糖蜜を抜くという作業を5回繰り返して、ようやく和三盆糖が完成します。全部で1週間かかるそうです。和三盆糖を丸めたり木型に詰めたりして固めた菓子が「和三盆」と呼ばれます。

教材は、味を決めるのは畑の土だとも書いています。サトウキビの汁を炊きつめるときに灰汁(あく)を丁寧に取ることから自然の味が生まれ、土がよくないと灰汁がうまく取れなくなる。そのため、東かがわ市を中心にサトウキビづくりに向いた土地を選んで育てている、という説明です。

和三盆糖ができるまでの工程と型抜きの手順を上から下へ枠と矢印で示した図
和三盆糖ができるまで。東かがわ市教育委員会の教材と市観光情報サイトの記述から、白下糖を研ぐ工程と型抜きの手順を1枚に整理したもの(図:水のソムリエ編集部作成)

食品学の側からは、山中(1972)が和三盆糖を「独特の精製法のため結晶粒子の細かい、風味のある分蜜糖」と位置づけています。木型で固める「打ち物」については、村上陽子(2020)が、和三盆糖で作った打ち物は上白糖で作ったものより硬く、明度が低い(色が濃い)ことを実験で示し、水飴を含む「ネキ水」の加え方が硬さに影響すると書いています。松井年行(1977)は、引田産と種子島産の同じ品種のサトウキビから作った白下糖と和三盆糖の成分を比べ、引田産に有機酸などが多いことを報告しました(抄録による)。

港町・引田の町並み

瓦屋根の門と板塀の町家、白壁の土蔵が並ぶ引田の通り
引田の町並み(東かがわ市)。かめびし屋から讃州井筒屋敷へ続く通り(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY 2.5)

国土交通省四国地方整備局の「四国八十八景」の資料は、引田を「上方と瀬戸内海を運行する船の要港として栄えた町」と紹介しています。赤壁となまこ壁の老舗醤油屋かめびし屋から讃州井筒屋敷へと続く市道引田本町線では、かつての港町の風景を楽しめるとあります。

赤壁となまこ壁が続く醤油蔵かめびし屋の門
赤壁となまこ壁の醤油蔵かめびし屋(2007年10月)。四国八十八景の資料が引田の町並みの目印として挙げる(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY 2.5)

讃州井筒屋敷の公式サイトは、「和三盆発祥の地でつくる」手づくり和三盆型抜き体験を案内しています。東かがわ市の観光情報サイトのモデルコースによると、この体験は、粉状の和三盆糖に霧吹きで湿り気を与え、ふるいにかけてダマをなくし、木型に詰めて取り出して干菓子をつくるものです。同じコースには、和三盆の工場見学(ばいこう堂・1週間前までに要予約)や、お茶と季節の花型の和三盆でもてなしてくれる三谷製糖 羽根さぬき本舗も載っています。

瓦屋根と白壁の母屋が中庭を囲む讃州井筒屋敷
讃州井筒屋敷の母屋と中庭(2007年10月)。和三盆の型抜き体験が案内されている(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY 2.5)

引田の一年――ひなまつりと秋の大祭

港町の暮らしは、年中行事にも残っています。東かがわ市観光情報サイトによると、「引田ひなまつり」は2003年にまちおこしのために始まった行事で、例年2月下旬から3月3日まで、引田の古い町並みの約60軒に、「引田飾り」と呼ばれる地域独特の豪華な飾り付けの雛人形が飾られます。着物で着飾った子どもたちの雛行列や茶会、地域の人によるバザーも開かれます。

御殿飾りの雛人形と、赤い雛壇を囲む市松人形
引田ひなまつりの御殿飾りと、雛壇を囲む市松人形(讃州笠屋邸・2009年2月)。市観光情報サイトは「引田飾り」と呼ばれる地域独特の飾り付けと紹介する(写真:Reggaeman/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

秋には、引田の氏神である誉田(ほんだ)八幡宮の秋の大祭があります。同サイトによれば、全国でも珍しい「投げ奴(なげやっこ)」や獅子舞の奉納行事があり、御輿渡御(みこしとぎょ)の際に5メートルほどの奴(毛やり)を投げる姿が見どころとされています。例年10月中旬で、2026年は10月10日と11日に行われました。東かがわ市には、白鳥神社の「虎頭(とらがしら)の舞」と川東の「尺経(しゃっきょう)獅子舞」という、どちらも昭和44年(1969)4月3日に香川県の無形民俗文化財に指定された獅子舞があります(香川県教育委員会の指定文化財一覧)。白鳥神社の秋季大祭は例年10月6日から8日で、虎頭の舞を含む獅子舞や奴の奉納行事が行われます。

朱の高欄と奉納幕のある誉田八幡宮の拝殿
引田の氏神・誉田八幡宮の拝殿(2007年10月)。秋の大祭では投げ奴と獅子舞が奉納される(写真:663highland/Wikimedia Commons・CC BY 2.5)

行事の食べ物にも、この土地の作物が顔を出します。日本調理科学会の香川県の調査(次田一代ら、2021)は、県内の行事食として、正月のあんもち雑煮、ひな祭りのよもぎ餅・ひなあられ・わけぎ和え、端午の節句のちまきや柏餅、半夏生(はんげしょう)の「はげ団子」と打ち立てうどん、秋祭りのばらずし・天ぷら・あじの三杯・しょうゆ豆、そして12月から2月のため池の水抜き後に食べる「てっぱい」を挙げています。同じ調査団のおやつの報告(2017)には、和三盆糖の産地である東讃地域には、小麦や裸麦を粉にした「おちらし」に、上白糖ではなく「ごみ砂糖」を混ぜて作る「おちらしあめ」があった、と書かれています。製糖の過程で出る砂糖を使ったおやつは、産地ならではの食べ方です。秋山照子(2005)は、庄屋の文書から近世から近代(1784〜1903年)の讃岐の農村の葬送儀礼と供応食を調べ、東讃・中讃・西讃を通じて一汁三菜の献立がほぼ定型化していたことを示しています。

阿波の藍:藍住町と吉野川

二つの川に挟まれたデルタ――地形と立地

藍住町は、吉野川と旧吉野川という二つの川筋に囲まれたデルタ(三角州)にあります。藍住町の文化財保存活用地域計画によれば、町の全域が沖積平野で、標高は1.4メートルから5.17メートル。氾濫原、自然堤防、旧河道といった微地形からできています。町域の南を吉野川が東へ流れ、旧吉野川が町の西端から北端に沿って大きく蛇行しながら流れ、ともに紀伊水道に注ぎます。地質も川がつくったものです。計画によれば、徳島平野を構成する地層は固まっていない砂礫層で厚さ500メートル以上に達し、町の地下は沖積層である徳島層と、その下の最終間氷期に堆積した北島層に分けられます。

この平野に人が住み、田を区画した歴史は古く、服部昌之(1966)は阿波の条里(古代の土地区画)を復原し、吉野川下流の平野では離れた場所の条里がほぼ同じ方位(北から西へ10度)で設計されていたこと、天平勝宝元年(749)に東大寺のもとで設けられた新島荘が吉野川沿いの低地にあり、川の度重なる洪水で壊されたことを書いています。寺戸恒夫(1967)は、吉野川下流右岸の河岸段丘を高位・中位・低位の三つの群に分け、東部の谷底平野が断層にはさまれた地溝であることを示しました。

植え込みいっぱいに丸みのある緑の葉を茂らせたアイ(マルバアイ)の株
葉を茂らせたアイ(タデアイ)の株(他地域の参考写真)。アイの園芸品種マルバアイの植え込み(写真:小石川人晃/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

藍の畑は、この川沿いの村々に広がっていました。天野雅敏(2007)によれば、1740年(元文5年)の調査では、吉野川沿いの7郡331村のうち237村で藍が栽培され、作付面積は3,000町に達していました。18世紀後半にさらに広がり、1800年には6,500町。60年で倍になった計算です。後藤捷一(1979)は同じ元文5年の調査から郡別の内訳を示し、藍作の村238か村のうち、藍住町を含む板野郡が31パーセントで最も多く、名東郡26パーセント、名西郡15パーセント、麻植郡12パーセントと続くと書いています。

「日本一上所」と呼ばれた藍作

藍住町教育委員会がまとめた「藍住町文化財保存活用地域計画」(2024年に文化庁が認定)は、町の藍作の歴史を次のように整理しています。元文5年(1740)の「藍作見聞記録」には、藍作の「日本一上所」として中富・祖母ヶ島・小塚が、「上所」として徳命・成瀬・竹瀬が挙げられているといいます。

藍の歴史はさらに古く、計画が町指定有形文化財に挙げる勝瑞(しょうずい)の見性寺(けんしょうじ)の文書には、鎌倉時代に「染葉」が植えられたことが記されています。文化庁の日本遺産「藍のふるさと 阿波」のストーリーも、平安時代の終わりに阿波で栽培が始まった藍が室町時代にはこの地域の特産となり、室町時代後半に勝瑞城下で藍染料に加工されるようになったといわれる、と書いています。

石段と高床の見性寺本堂
藍住町勝瑞の見性寺本堂(2010年2月)。町指定文化財「見性寺文書」には鎌倉時代に「染葉」が植えられたことが記されている(写真:Wikimedia Commons の投稿者/Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

享保16年(1731)に徳島藩が藍玉の直売や振り売りを公認すると、藍商人は藍屋と直接取引して財を蓄え、大坂・江戸の市場をはじめ全国に進出しました。計画によれば、藍商人は海上交通の安全や商売繁盛を祈って神社に石燈籠や狛犬を寄進し、藍屋敷には必ずといってよいほど茶室が設けられたといいます。

計画は、吉野川が水上交通の大動脈でもあったことを記しています。町域には名田湊、ヤマモクの浜、カクジの浜、乙瀬の浜、千鳥ヶ浜などの川湊があり、藍などが運び出され、反対に干鰯や鰊粕といった藍作に必要な物資や、米や塩が運び込まれました。こうした舟運は江戸時代から明治時代中ごろまで発達し、最盛期には千艘近い川舟が行き来していたようだ、と計画は書いています。

阿波藍の加工技術は、文化庁の日本遺産ポータルサイトによると、昭和53年(1978)に国の選定保存技術に選定されています。樫山昌史(2018)はその経緯を、1900年(明治33)から外国染料の輸入増加で阿波藍製造の衰退が始まり、1965年(昭和40)には製造量が12トンに減ったこと、明和3年(1766)に1,289人いた藍師(藍染料の製造技術者)が1975年(昭和50)ごろには5人になったこと、この状況で1978年5月9日に文化財保護法第147条の選定保存技術に定められたことと説明しています。樫山によれば、江戸時代後期から幕末まで、藍染料(蒅・藍玉)の製造量は11,000トン台を保っていました。

桃色の花をつけたタデアイ
タデアイの花(他地域の参考写真)。阿波藍の原料になるタデ科の植物(写真:Kenlo Nasahara/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

蒅づくりの一年――藍師の手仕事

藍の染料づくりは、1年がかりの仕事です。徳島県立工業技術センターの川人美洋子(2010)は、阿波藍の製造を産業分類にあてはめ、3月の種まきから8月の刈り取りまでが農業、8月の葉藍(乾燥した葉)づくりから1月まで続く「蒅(すくも)」の発酵が製造業、12月以降の出荷が商業にあたると説明しています。川人によれば、徳島で栽培されている藍はタデ科の「小上粉(こじょうこ)」という品種です。栽培の手順は次のとおりです。

葉を茂らせたアイ(タデアイ)の赤みのある茎と緑の葉
アイ(タデアイ)の茎と葉(他地域の参考写真)。阿波藍の原料になる植物(写真:小石川人晃/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

【手順1】3月の大安の日を選び、藍の種を1平方メートルあたり7グラムを目安に苗床に播き、種が隠れる程度の砂をかける

【手順2】約1か月で2〜3センチに育った苗を間引き、4平方センチあたり2〜3本の割合で残す

【手順3】さらに約1か月後、苗床に水をやって土を柔らかくし、約20センチに育った苗を4、5本ずつまとめて抜き取り、ワラで束ねて、畝幅80センチの畑に40センチ間隔で移植する

【手順4】7月に1回目の刈り取り(一番刈り)、8月にその後再生した葉を2回目の刈り取り(二番刈り)

【手順5】刈り取った葉を藍師の家の庭に移し、裁断機にかけ、扇風機の風で葉と茎を選別する(茎にインジゴは含まれない)

【手順6】選別した葉を庭に広げて天日で乾かす。この作業を「粉成し(あいこなし)」と呼ぶ

阿波藍の蒅づくりの一年の作業を月ごとに縦に並べて示した図
阿波藍の蒅づくりの一年。川人(2010)、文化庁の日本遺産「藍のふるさと 阿波」、総務省の協力隊事例の記述から、月ごとの作業を1枚に整理したもの(図:水のソムリエ編集部作成)

ここから先が藍師の仕事です。文化庁の日本遺産「藍のふるさと 阿波」のストーリーによれば、加工場である「寝床」では、積み上げられた藍の葉に水を打ち、攪拌して発酵を促す作業が秋から冬にかけて何度も繰り返されます。発酵温度はやがて60度を超え、作業中の寝床には湯気が立ちこめ、刺激的な発酵臭が満ちる。その温度と臭いが仕上がりを知る目安で、初霜が降りるころ、発酵の進んだ葉は黒い土の塊のような姿になり、藍の色素が凝縮された「蒅」ができあがります。樫山(2018)は、この蒅に砂を入れて固形化したものを「藍玉」と呼ぶと説明しています。

白い柄を織り出した藍色の木綿の反物3本が掛け台に並ぶ展示
藍で染めた木綿の絣(弓浜絣)の反物(他地域の参考写真)。藍の染料で染めた布の例(写真:Bioika0201/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

この労働は、歌にも残っています。藍住町長の石川智能が国土交通省の広報誌に寄せた文章には、「藍の種まき 生えたら間引き 植えりゃ水とり 土用刈り」「葉藍寝かせて 水やって醗酵す 藍の寝床で 色を生む」「阿波の北方 起き上がり小法師 寝たと思ったら はや起きた」といった「藍こなし歌」が引かれています。藍住町の計画も、藍染料づくりには力がいることから、庶民の間で力石が流行したと書いています。

藍住町の現状について、総務省の地域おこし協力隊の活動事例では、藍住町の隊員が県内の藍師のもとで一年間研修を受け、4月に植えた藍の苗を7月に収穫し、9月から寝床と呼ばれる土間で蒅を製造していると報告されています。樫山(2018)によれば、現在蒅が多く製造されているのは上板町・石井町・徳島市です。徳島県立農林水産総合技術支援センターは、県内では蒅の原料となるタデ藍の作付面積が減少し、供給量が不足していると書いています。

石垣の上の屋敷と高地蔵

藍住町の計画は、吉野川を「四国三郎」と呼ばれる暴れ川とし、江戸時代の記録では万治2年(1659)から慶応2年(1866)までに約100回の洪水があったと記しています。享保7年(1722)には6月・7月・8月と3度の洪水があり、住吉村(現在の藍住町住吉)で流失を免れた家屋は高い石垣を築いた屋敷だけだったそうです。

国土交通省の「日本の川」の解説も、吉野川の両岸に大きな堤防が築かれたのは昭和初期のころで、それ以前は毎年のように氾濫する吉野川が肥沃な土壌を運び、下流域で藍の栽培が盛んに行われていた、と書いています。藍住町の計画は、大正末期に吉野川堤防が完成し第十樋門が整備されたことで洪水被害はなくなった、としています。土木史の側では、松浦茂樹(2011)が、吉野川では明治に入って本格的な治水事業が展開され、途中で事業の中止など紆余曲折を経ながら、昭和2年(1927)に一応の完成を見たと書いています。松尾裕治ら(2011)は、1883年(明治16)にオランダ人技師デ・レーケが始めた第十堰周辺の水位観測の記録と、1901年の河川測量図、そして1878年から1927年までの50年分の新聞記事をもとに、近代の改修以前の堤防の状態を復元しました。瀧井宣明ら(2012)は明治44年(1911)の洪水を数値計算で再現し、堤防の整備が進んでいなかった当時の吉野川では、多くの橋や家屋が流される洪水がたびたび起きていたと述べています。

その向き合い方が、町の景観に残っています。計画によれば、藍農家や藍師、藍商人は屋敷地を石垣で高くして洪水に備え、それが地域の特徴ある景観になりました。日本遺産のストーリーは、藍屋敷の「寝床」の軒下に、刈り取った藍の葉を運び込むだけでなく、洪水のときの脱出用の舟が吊り下げられていると書いています。町に点在する「高地蔵」は、台座を高くして洪水から地蔵尊の像を守ろうとする信仰心の表れといわれ、慶応2年(1866)の「寅の大水」で破堤した、板東谷川が旧吉野川に合流する乙瀬の堤防上には、溺死者を弔う高地蔵尊像が建てられています。町指定有形文化財の「龍池(りょうじ)の高地蔵」は、計画によれば、藍栽培が盛んな洪水地帯において、慰霊や道標、洪水への警鐘のために地元の藍豪農や藍商人らが寄進したものです。計画は、藍産業が発展する江戸時代中期以降に高い台座を持つ丸彫りの地蔵尊が多く建てられたことは地域の経済力の増大を反映している、とも書いています。

ほかにも、矢上村では暴れ川だった正法寺川の氾濫から村を守るために堤防を築き、村の南北に「南無妙法蓮華経」と刻んだ題目石を立てて村全体を聖域とした、堤の高さを決めた「印石(しるしいし)」が残っている、中世の勝瑞城館は大規模な濠を掘り、その土で敷地を高くして水害から守った、と計画は記しています。

計画が町の文化財として挙げる「奥村家住宅」は、藍商人の奥村家の屋敷で、文化年間から明治20年(1887)にかけて建てられました。石垣で高くした屋敷地に主屋が建ち、その前の中庭を囲むように藍の加工場である寝床や蔵が並ぶ、「城構え」と呼ばれる景観を持つ典型的な藍屋敷です。藍の館の公式サイトによれば、主屋は棟札から文化5年(1808)に建てられ、文政10年(1827)に2階を継ぎ足す増築がされたことがわかっており、昭和62年(1987)に徳島県の有形文化財(建造物)に指定されています。奥村家の旧屋敷13棟は藍住町に寄付され、町歴史館「藍の館」として平成元年に開館しました。

藍商人がつくった祭りと芸能

藍の富は、祭りと芸能の形でも町に残りました。藍住町の計画によれば、江戸時代に財力を付けた藍師や藍商人たちは地元の神社に寄進を行い、五穀豊穣や商売の繁盛、安全安心を願いました。川湊に建てられた石燈籠には、寄進者の中に地元の藍師の名が見え、竿石には「水上安全」「往来安全」といった文字が刻まれています。藍を積んだ船の安全を祈願して建てられたものだ、と計画は考えています。神社では小屋がけをして人形浄瑠璃を披露し、地域の人びとに娯楽を提供しました。日本遺産のストーリーも、芸事を好んだ藍商人が頻繁に人形座を招いたことから「阿波人形浄瑠璃」が隆盛し、今でも年明けには箱回し芸人による「三番叟(さんばそう)まわし」が藍屋敷を訪ねて門付けを行っていると書いています。

紺の地に白や水色の十字や市松の柄を織り出した木綿の反物が並ぶ
紺の地に白や水色の柄を織り出した木綿の絣(久留米絣)の反物(他地域の参考写真)。藍色の糸で柄を表す布の例(写真:水だらけのプール/Wikimedia Commons・CC0)

計画は、現在の町の祭りを次のように挙げています。氏神・産土神である神社では、厄を祓うために獅子舞が舞われ、一家の健康や安寧を祈る日待祭(ひまちまつり)や節分祭、五穀豊穣を祈る祈年祭(きねんさい)や湯立祭(ゆだてまつり)が行われています。町指定の無形民俗文化財は3件で、南陽神社の獅子舞のうち勝瑞獅子保存会が現在も活発に活動を続け、未指定ながら富吉八幡神社の獅子舞も続いています。

石の信仰も、藍の村の特徴です。計画によれば、春秋の彼岸に近い戊(つちのえ)の日に五穀豊穣を祈願する「地神祭(じじんまつり)」が、徳島県と香川県、淡路島では近年まで盛んに行われていました。村人が、5柱の農業神の名を刻んだ五角柱の地神塔の前に集まり、神酒や農作物を供えて祭祀を行います。地神塔は藍住町内で28基が確認されています。藍住町では、法華宗の正法寺の勢力圏に法華経の文言を刻んだ3基の仏式の地神塔があることが大きな特徴です。60日ごとに回ってくる庚申(こうしん)の日に仲間と徹夜で祭事を営む庚申講・庚申待の習俗を示す庚申塔も残ります。この「地神さん」については、平成5年度(1993)に町の文化財保護審議会が調査して冊子にまとめ、平成17年度(2005)の阿波学会の調査でも地神さんと地蔵信仰、カリサオ(刈竿)の調査が行われた、と計画は記しています。

食の行事も、吉野川北岸ならではの姿があります。日本調理科学会の徳島県の調査(高橋啓子ら、2021)によれば、徳島では子どもが生まれると男の子も女の子も「遊山箱(ゆさんばこ)」という引き出し式の三段重ねの重箱を与えられ、ひな祭りの日には寿司や菓子を詰めて近くの浜や野山に出かけました。ひな祭りは昔は4月3日(旧暦の3月3日)に行われ、2020年の調査では60歳以上の71.4パーセントが「子どもの頃使ったことがある」と答えています。同じ調査団のおやつの報告(後藤月江ら、2017)は、吉野川北岸や県中央部では小麦粉の生地で餡を包み、サルトリイバラの葉の上に乗せて蒸した団子を柏餅として食べ、その餡にそら豆を使うことが特徴的だと書いています。主菜の報告(金丸芳ら、2018)には、昭和40年前後の吉野川北岸の料理として、鯨のすき焼き、ししなべ、しじみ、カラス貝、フナ、ごぼうとドジョウの煮物、ワラビの卵とじが挙げられています。川と水路の生き物が、日常のおかずでした。

藍からダイコン、そしてニンジンへ

明治に入っても藍染料の需要は当初は拡大を続けましたが、明治33年(1900)にドイツから化学染料が大量に輸入されるようになると、藍の売れ行きが悪くなった、と藍住町の計画は記します。天野雅敏(2007)は貿易統計から、天然のインド藍の輸入が1880年代末に20万斤を超え、1892年に48万斤、1896年に95万斤、1890年代末には200万斤近くに達したことを示し、板野郡の奥村家・木内家・高橋家の経営を調べて、藍を柱とした収入が停滞し、高橋家は藍の営業をやめざるを得なかったと書いています。天野によれば、輸入藍の流入を乗り切るために吉野川沿いの村々では灌漑事業が進められ、1908年には吉野川の南岸に麻名用水、北岸に板名用水が設けられて、米作が広がりました。

藍住町の計画も同じ転換を記しています。藍商人は銀行の設立などの新しい事業へ急速に転換し、藍作農家は藍作の伝統を生かして園芸作物へ向かいました。良質な土壌と藍作のノウハウを生かしたダイコンの栽培と加工品の阿波たくあんが生産され、昭和40年(1965)ごろからはニンジン栽培が盛んになって、現在は全国有数の産地になっています。

もう一つの転換は、米づくりです。計画によれば、吉野川は年間の最大流量と最小流量の差が大きく、水資源の開発が難しかったため、かつては灌漑の水を引けず、稲作ができなかったといわれています。藍産業にかげりが見えると用水路の整備が検討され、明治34年(1901)に町で最初の水利組合である「神蔵普通水利組合」が県の認可を受け、千鳥ヶ浜に揚水場を設けて米づくりにも乗り出しました。その後も各地に水利組合や土地改良区が設立されています。

香川県と徳島県の輪郭の上に、引田(東かがわ市)と藍住町(藍の館)の位置を示した地図
引田(香川県東かがわ市)と藍住町(徳島県)の位置(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」、国土交通省「国土数値情報(行政区域)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

数字で見る変化

藍住町:農村からベッドタウンへ

出どころのそろった数字として、藍住町の計画が国勢調査から引いた人口を見ます。藍住町が誕生した昭和30年(1955)の国勢調査では10,544人でしたが、その後は減り続けて一時1万人を割り、昭和40年(1965)には最低の9,726人を記録しました。昭和50年(1975)に町の全域が「藍住都市計画区域」に指定され、徳島市のベッドタウンとして宅地開発が進むと人口は増加に転じ、昭和60年(1985)の国勢調査では22,619人になりました。

計画によれば、平成12年(2000)には3万人を超え、令和6年(2024)3月末日で35,349人です。この最後の数字は国勢調査ではなく町の集計なので、前の数字と同じ物差しではありません。計画は、国立社会保障・人口問題研究所の推計として、令和7年の35,741人をピークに人口が減少に転じるとも記しています。

農地の側から見ると、昭和60年(1985)に927戸あった農家数は令和2年(2020)には450戸と半減し、経営耕地面積も同じ期間に約83%減りました。令和3年(2021)の地目別土地利用は、田が約343ha(31.5%)、畑が約219ha(20.1%)、宅地が518ha(47.6%)で、宅地は昭和60年から約170ha増えています。藍の畑だった土地は、ニンジンのビニールハウスと住宅地に姿を変えました。

東かがわ市:減り続ける人口と、砂糖から手袋へ

引田を含む東かがわ市は、2003年4月1日に引田町・白鳥町・大内町が合併してできた市です(総務省統計局 e-Stat の廃置分合情報)。市の「東かがわ市人口ビジョン」(2025年3月)が国勢調査から引いた総人口は、1980年の43,110人から、1990年40,875人、2000年37,760人、2010年33,625人、2020年28,279人へと、40年で約3分の2に減りました。ビジョンは、市の人口が1965年以降減少傾向にあると書いています。内閣府に提出された市の地域再生計画によれば、出生数は合併時の2003年の235人から2023年には85人に減り、死亡数は毎年約500人です。

生業の側では、砂糖のあとに手袋が来ました。塚本僚平(2010)によれば、東かがわ地域の手袋産業は高度経済成長期に大量生産と輸出で発展し、1950年代以降は海外への生産機能の移転や高付加価値化が進みました。国内の分業による生産規模は縮小し、海外生産が大きな部分を占めるようになった、と塚本は書いています。和三盆糖は、この町の生業の歴史の中では、小さな手仕事として残った産業です。

この地域の水

讃岐と阿波、二つの農村の水を公開資料から拾うと、対照がはっきりします。

一つめは、作物と水の関係です。藍住町の計画は、吉野川の氾濫が豊かな土壌と豊富な水をもたらし、豊かな伏流水と洪水の肥沃な土壌が藍草の栽培を支えた、と書いています。藍は、川の氾濫そのものを土台にした作物でした。一方の引田の砂糖は、市の教材によれば畑の土が味を決めるとされ、仕上げの型抜き体験では霧吹きで和三盆糖に湿り気を与えます(東かがわ市観光情報サイト)。

二つめは、川と水系です。国土交通省によると、吉野川は高知県の瓶ヶ森に源を発し、四国山地を横断して徳島平野に出て、第十地点で旧吉野川を分派し、紀伊水道に注ぎます。幹川流路延長194km、流域面積3,750km²、流域内人口は約61万人で、流域は徳島・香川・高知・愛媛の4県にまたがります。吉野川の水は流域外の高知県側、愛媛県側、香川県側に分水され、四国4県で広く使われています。藍住町の計画によれば、近世前期まで吉野川の本流はほぼ今の旧吉野川の流路で、今の吉野川は別宮川と呼ばれていました。寛文12年(1672)に徳島城下の舟運のため新川を掘り抜くと別宮川が本流化し、水位の下がった旧吉野川の流域は水不足に悩んで、宝暦2年(1752)に第十堰が築かれたといいます。この第十堰は、20世紀の終わりに全国の注目を集めました。姫野雅義(2004)によれば、河口から15キロにある石と松杭でできた古い堰を壊して下流に可動堰をつくる計画の是非を問う住民投票が2000年1月23日に徳島市で行われ、投票者の9割が反対しました。国の公共事業の是非が住民投票で問われたのはこれが初めてだった、と姫野は書いています。

1974年の空中写真に写る吉野川と第十堰、両岸の堤防と水田
吉野川第十堰付近の空中写真(1974年撮影)。川を斜めに横切る堰と、両岸の堤防・水田が見える(写真:国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」/Wikimedia Commons 経由)

吉野川と讃岐には、水の民俗もあります。新見治(2026)は、吉野川の潜水橋(増水時に水面下に沈む橋)が1950〜1960年代に廉価な橋として建設され、現存するのは8つだと書き、民家の屋根に飾られた帆掛け船の形の「帆立瓦」が、讃岐平野では約350軒、吉野川では古い町並みに約180軒残っていることを数えています。讃岐の帆立瓦は金毘羅参詣で賑わった100年前の名残であり、吉野川のものは舟運の衰退から100年後も継承される地域文化だ、というのが新見の見方です。

香川県側の水は、雨の少なさから出発します。香川県の資料によれば、県の降雨量は全国平均の三分の二程度で、農業用水を確保するために多くのため池が築かれてきました。県内のため池は2021年4月1日現在で12,269か所(土地改良課)。農業用水に占めるため池の割合は、香川用水の通水前は約7割、通水後は約5割になったものの、全国と比べるとなお大きいと県は書いています。西山壮一・弥永孝一(1988)は、香川県を日本でも最も雨が少ない地域とし、香川用水の通水前には昭和48年(1973)の異常渇水をはじめ5〜6年に一度の高い頻度で干ばつが起きていたこと、通水後は讃岐本土で水不足の問題がきわめて少なくなった一方、恩恵を受けない小豆島などの島では依然として水不足だったことを書いています。内田和子(2002)は、ため池の研究が地理学のほか法学・歴史学・農業土木学など多くの分野で行われてきたことを整理し、ため池は河川の水が十分でない地域で地下水とともに補助的な水源として使われる灌漑施設だと位置づけています。

満濃池の芝の堤体と、放水口から流れ落ちる水
讃岐のため池の例・満濃池の堤体と放水口(まんのう町・2006年10月)。東かがわ市ではなく、香川県のため池の代表例として(写真:河川一等兵/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

その香川用水は、吉野川の水です。香川県の「香川用水の概要」によると、吉野川上流の早明浦ダム(高知県)で新たに開発された年間8億6,300万トンのうち、徳島県池田地点からトンネルで香川県へ分水される年間2億4,700万立方メートルが香川用水です。内訳は農業用水1億500万トン、上下水道用水1億2,210万トン、工業用水1,990万トンで、上下水道用水は8市6町に日量平均約33.4万トンを供給します。昭和49年(1974)5月に通水式、昭和50年(1975)6月に本格通水、昭和53年(1978)6月に全線通水しました。香川用水の通水後は、ため池が香川用水の水を貯めて下流へ配る調整池の役割も担っています(県「ため池の役割」)。水資源機構香川用水管理所は、2024年11月に香川用水の総取水量が90億トンに達したと発表しています。農業専用区間の老朽化と耐震化に対応する香川用水二期事業は、平山真大・成瀬勝済(2024)によれば、平成26年度の着工から10年目の令和5年度に完工しました。

用水ができても、渇水はなくなりませんでした。長町博(1995)は、香川用水通水から20年目の平成6年(1994)の渇水を「今世紀最大」とし、香川用水と水利組織・末端農家の努力で被害を最小限に抑え、水稲は平年を上回る豊作になったと報告しています。篭橋一輝(2015)は、この1994年の渇水のときに讃岐平野で行われた、用水どうし・水系どうしで水を融通し合う「水融通」を整理し、各利水者の福祉に取り返しのつかない損失が出るのを避けることを強く志向した仕組みだったと述べています。新見治(2004)は、讃岐平野を日本で最も水に乏しい地域の一つとしたうえで、都市化による水需要の増加が農業用水の配分に影響し、川やため池の水質悪化も招いたと指摘し、需給の均衡には地表水と地下水を組み合わせて使い、水文環境を保全し、土地利用を賢く管理することが必要だと書いています。

三つめは、飲み水の現在です。香川県の「香川の水道」(令和6年度版)によると、平成29年度に香川県広域水道企業団が設立され(平成30年度事業開始)、県内すべての上水道事業と水道用水供給事業が統合して一つの上水道になりました。引田を含む東かがわ市の水道も、この企業団の事業です。香川用水の水道用水は、2026年10月12日に県のページで確認した時点で、7月30日の第一次から8月27日の第四次まで取水制限が段階的に進み、一時的な解除をはさんで10月9日に第四次取水制限が再開されていました。雨の少ない讃岐の暮らしは、今も吉野川上流の貯水量と結びついています。

藍住町の水道の水源については、町の公式サイトに上下水道課の窓口案内はあるものの、水源を説明したページを見つけられず、この記事では確かめられませんでした。

藍の畑が住宅地に変わった藍住町で、水辺は公園の形で残されています。町の計画は主な観光施設として、藍の館とともに東中富親水公園や正法寺川公園などの写真を載せています。

岩組みの滝から澄んだ水が小川に流れる東中富親水公園
東中富親水公園(藍住町)の水辺(写真:Wikimedia Commons の投稿者/Wikimedia Commons・CC0)

吉野川の堤防の下から湧き、吉野川に並んで流れて本流に注ぐ江川湧水源(吉野川市)は、「徳島県の名水」で紹介しています。藍住町の上流にあたる、同じ吉野川の水です。

岩の間から澄んだ水が湧く江川湧水池
江川湧水源の湧水池(吉野川市・2024年5月)。吉野川の堤防の下から湧き、本流に注ぐ(写真:ブルーノ・プラス/Wikimedia Commons・CC BY 4.0)

行く・買う

和三盆の型抜き体験は讃州井筒屋敷(東かがわ市引田)で、工場見学はばいこう堂(東かがわ市吉田・要予約)で案内されています。藍の栽培と加工の道具や奥村家の藍屋敷は、藍住町歴史館「藍の館」(藍住町徳命)で見ることができ、約30分の藍染体験もあります(10名以上の団体と生地の持ち込みは要予約)。営業日と休館日は、出かける前に各公式サイトでご確認ください。

出典

一次資料(政府機関・公的機関の公表資料、研究論文、施設の公式サイト)。リンクの到達性は2026年10月13日に確認しました。J-STAGE の論文は、抄録を読めたものは抄録、読めないものは記事の1ページ目(J-STAGE が公開している画像)によります。

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