三峯神社の社殿を背景に埼玉県の形を水色で重ねたアイキャッチ

関所と斜面の畑 三峰と栃本(埼玉県)の暮らしと水【水と地域文化】

埼玉県の西のはずれ、秩父市大滝(おおたき)は、荒川の谷あいに集落が点在する山の地域です。秩父市の都市計画マスタープランによると、大滝地域の土地利用は98%が山林で、集落は荒川と中津川の川沿いと国道140号の沿道に分かれて散らばっています。

この地域には、二つの名前が今も残っています。一つは栃本(とちもと)。江戸時代、甲州へ抜ける道を見張る関所が置かれた集落で、関所の跡は国の史跡です。もう一つは三峰(みつみね)。狼を神の使いとする三峯神社が鎮座する山です。

大滝はまた、人の減り方の大きな山村です。市の計画によると、大滝地域の人口は1960年の8,202人を頂点に、60年間で7,414人、90.3%減りました。秩父市のなかで最も減少率の高い地域です。

この地域の水(要約)

紅葉したカエデの下を流れる秩父市大滝の中津川の渓谷
紅葉の時期の中津峡。荒川の支流・中津川の渓谷(埼玉県秩父市大滝・2008年11月)(写真:Yones/Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

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残雪のある奥秩父の稜線、霧藻ヶ峰・白岩山・雲取山を妙法ヶ岳から望む
妙法ヶ岳から見た霧藻ヶ峰・白岩山・雲取山(2018年3月)。白岩山と雲取山は「三峰」の名のもとになった三つの峰のうちの二つ(写真:Koda6029/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

この記事の資料について

大滝は、地理学と民俗学の調査が重ねられてきた土地でもあります。黒澤滋(1915)は三峰山の気温を、上田信三(1937)は秩父山地の耕作限界線を、猪俣好光(1959)は焼畑の地名を調べました。

1970年代以降は大熊一堂・山本茂(1973)、桐村剛(1981)、中村康子(1995)、立花敏ら(1998)、長尾悠里(2018)が村の変化を追い、三木一彦(1994・1996・2001)は三峰信仰を、辻稜三(1997)は栃の実の食べ方を論じています。

この記事は、江戸時代と大正・昭和の地誌、国や県・市の公開資料、神社や施設の公式サイト、そして無料で読める研究論文だけをもとに書いています。現地での聞き取りや撮影は行っていません。古い地誌の記述は「当時そう書かれていた」こととして紹介し、研究の論点は「誰が、何を指摘したか」の形で示します。資料で確かめられなかったことは、そのつど「確かめられなかった」と書きます。

荒川の谷と、村の広さ――地形と立地

埼玉県の中の栃本関跡と三峯神社の位置を示した地図。県の西端の山地にある
埼玉県の中の栃本関跡と三峯神社の位置(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」、国土交通省「国土数値情報(行政区域)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

「蜀道」と呼ばれた山道

大滝は、長いあいだ「行きにくい土地」として語られてきました。1884年に刊行された『新編武蔵風土記稿』の大瀧村の項には、鉢形城が栄えていたころには甲州への往来でにぎわい、誰が名づけたのか、秩父をさして「蜀道」と唱え、武甲山を「峨眉山」などと呼んだと里の古老が語った、という話が載っています。蜀道は、中国の険しい山道の名です。

1925年の『埼玉県秩父郡誌』も、甲斐・信濃・上野へ通じる山道は古くから開けていたものの、深い山と谷のあいだを行くため不便がはなはだしく、本村をさして蜀道と呼ぶ者さえあるほどだった、と書いています。谷川を何度も歩いて渡り、桟道を渡り、藤を巻いた梯子をよじ登る道だったといいます。

同じ郡誌は、その道が変わりつつあることも記しています。険しい岩を砕いて道路が通され、急流に橋が架けられ、三峯山のふもとには乗合馬車や自動車が往復するようになった、と。1920年代の大滝は、「蜀道」の呼び名と自動車が同居する時代でした。

この道は、交通史の研究では「秩父甲州往還」と呼ばれます。關英夫(1939)は、秩父盆地を取り囲む七つの峠のうち雁坂峠を「甲府に接続(秩父往還)」する道として挙げました。新井浩文(1990)は、江戸から秩父大宮までの「秩父道」と、秩父大宮から雁坂峠を越えて甲州へ向かう「甲州道」の二つに分けられる点をこの街道の特徴とし、栃本関所の手前の麻生加番所から将監峠を越えて甲州小田原へ行く峠道があったことも確認しています。

いまの大滝を貫くのは国道140号です。ジオパーク秩父の解説によると、埼玉と山梨を結ぶこの道は「彩甲斐街道」と呼ばれ、古くは武州と甲州・信州を結ぶ「秩父往還」でした。秩父市の計画によると、雁坂トンネルを使えば甲府まで約1時間の距離です。

嚢を括るような谷

『秩父郡誌』によれば、大瀧村は秩父郡の西南部にあり、大字は大瀧・三峯・中津川の三つでした。面積は約23方里で、郡の面積の三分の一弱にあたり、県内のいくつもの郡より広かったといいます。郡誌は「村内到る所高岳峻峯連亙し、平坦の地少なく」と書き、谷から湧き出す泉の流れが落ちて音を立てる様子に、大瀧の村名がふさわしいと記しています。

『新編武蔵風土記稿』は、この村の形を「四面に高山重畳して嚢を括るが如く」と表しました。村の中央を荒川の大河が屈曲して東へ流れ、道もまた川に添って右へ左へと渡る。それが江戸から甲州への一本の道でした。

家々は六つの組を合わせて172軒。道の左右に住んだり、山の中腹に二、三軒、四、五軒ずつ散在したり、遠く四方の隣家と隔たった一軒家もあったと風土記稿は書いています。水田はなく、山林が多く、常の畑はわずかに十分の二で、残りは山林を切り開いた焼畑でした。

集落の高さの違いは、古い観測記録からも読み取れます。黒澤(1915)は、1908年から1914年にかけて大瀧村の落合と三峰で午前10時の気温を観測し、荒川の河岸にある落合を海面上約400メートル、三峰山を約1,080メートルとして、山の斜面に沿った気温の分布を調べました。三木(1994)も三峰山の標高をおよそ1,100メートルとし、江戸時代の大滝村が古大滝・新大滝・三峰・中津川の4か村に分かれ、三峰村が三峰山の神領だったことを記しています。

栃本の地形は、ジオパーク秩父の解説によると、白泰山から東に延びる尾根の上の地すべりでできた、なだらかな地形です。東京大学秩父演習林の概要は、大滝の地形を「浸食が進み急峻で、V字谷が深く刻まれて」いると書き、栃本観測所(標高760メートル)の2011〜2020年の平均で、年平均気温11.3度、年降水量1,501ミリ、積雪は年によって変動が大きいが概ね20〜30センチとしています。

吊り橋の旧落合橋と、川の対岸に広がる落合の集落と山
旧落合橋と落合の集落(撮影年不明・戦前のガラス乾板)。落合は中津川が荒川に合流する大滝の集落(写真:東京大学秩父演習林 デジタルアーカイブズ(ガラス乾板コレクション)・CC BY 4.0)

標高で変わる土地利用

地理学では、標高帯ごとに土地の使い方が変わることを「土地利用の垂直分布」と呼びます。大滝では、荒川の谷底から斜面の中腹に集落と畑があり、その上に薪炭林と演習林の森、さらに上に亜高山帯の針葉樹林が重なります。

猪俣(1959)は、秩父地方に残る焼畑の地名――ソリ・サス・ハタ・ヤキ――の分布を調べ、ほとんどが標高約1,000メートル以下にあること、ソリは秩父盆地や山麓、河岸段丘などの標高約400メートル以下の平らな土地に、サスとハタは標高400〜800メートルの山の斜面に見られること、ソリはサスなどより古い焼畑の地名だと考えられることを報告しました。大滝の「サス」は、この分布の中の山の斜面側にあたります。上田(1937)は、山村の耕地の分布を地形図から検討する「分布論」の立場で、秩父山地の耕作限界線を論じています。

中村(1995)は、大滝村の寺井と皆野町の門平という二つの斜面中腹集落で、住民が土をどう分類し、作物をどう選んでいるかを調べました。中村によると、住民は土壌の階層的な分類を基礎に土地を区分し、両集落の「ネバツチ」には茶、「ノッペツチ」には野菜というように、土地の性質に合わせた作物を急傾斜の畑で選んでいました。火山灰土壌の「ノッペツチ」が最もよく使われる一方、中・古生層に由来する「ジャリマ」や「ネバツチ」は耕作の阻害因子が多いにもかかわらず肥沃さの点で高く評価されている、というのが中村の指摘です。

その上の森については、演習林の概要が、山地帯(標高600〜1,600メートル)では尾根の乾いた立地にツガ、山腹にブナやイヌブナ、谷沿いにシオジやサワグルミが分布し、亜高山帯(1,600メートル以上)ではコメツガやシラビソが優占すると書いています。清水長正(1983)は、秩父山地の山稜部に広がる平滑な岩塊斜面を、最終氷期にできた化石周氷河斜面と推定し、その下限を標高1,700〜2,300メートルとしました。谷底の畑から氷河期の名残の斜面まで、大滝の土地は標高に沿って縦に積み重なっています。

中津川の谷を見下ろし、川と斜面の集落・畑、その上の森が重なる
中津川の谷と鶉平(うずらひら)の集落・畑(撮影年不明・戦前のガラス乾板)。谷底の川、斜面の畑、その上の森という縦の重なりが写っている(写真:東京大学秩父演習林 デジタルアーカイブズ(ガラス乾板コレクション)・CC BY 4.0)

焼畑「サス」と山の小屋――江戸時代の生業

斜面に家々と段々の畑が並ぶ大滝の山村の全景
斜面に家々と段々の畑が並ぶ大滝の集落(撮影年不明・戦前のガラス乾板)。アーカイブの題は「大滝:栃本集落か」で、栃本と断定されてはいない(写真:東京大学秩父演習林 デジタルアーカイブズ(ガラス乾板コレクション)・CC BY 4.0)

『新編武蔵風土記稿』が伝える大瀧村の生業の核は、焼畑でした。畑が少ないので、険しい高いところに「火耕の地」を開き、これを「サス」といい、あるいは焼畑と呼んだ、と記されています。山の草木を焚いてその灰を肥料にし、粟・稗・大豆・小豆・蕎麦などを作りました。

それでも、耕す場所が狭いため、年の穀物はわずか六、七か月分をまかなうだけだったといいます。残りは材木を伐り出し、八品の産物を作り、それぞれの職分で食をつないだ、と風土記稿は「艱難の営み推して知るべし」と結んでいます。

焼畑は家のそばにはありませんでした。春の終わりから初冬まで、家から一里や二里も離れた山の頂や中腹の焼畑に小屋を結び、夫婦と子ども、母がそこへ移り住んで種をまく。穀物が実るころには、昼は猿を見張り、夜は鹿を追い、夫婦が別々の場所の小屋に通って夜ごと板木を打ち、声をあげて猪や鹿を防いだ。風雨でも怠らなかった、と書かれています。

猪鹿が多いため、六組のうちには幕府から渡された猟師筒と四季打ちの鉄砲を合わせて四、五十挺もあり、それでも猪鹿に食い荒らされるからと、下畑・下々畑の半分の年貢でよいとされていたといいます。

山稼ぎと「八品」

畑のほかに、村を支えたのが山でした。御林山に続く「稼山」で木を伐り、挽板・笹板・桶木・鞘木・木履・鍛冶炭などの「八品」を作ることが認められていました。養蚕は少なく、女性は絹や麻を織りましたが、栃本組などでは織物をせず、女性も男性と同じように野山で稼いだと風土記稿は特記しています。

三木(1996)は、この山稼ぎが三峰信仰の背景になったと論じました。三木によると、大滝村では17世紀中期以降、主に江戸へ向けた木材生産が盛んになり、村としてまとまって伐採の規制などを行う必要が生まれた。その中で三峰山に大滝村全体の鎮守、とくに木材生産に関わる山の神としての機能が求められ、18世紀中期には大滝村をはじめ秩父地域の人々がさまざまな形で三峰山を支えた、というのです。三木(1994)はまた、はじめ江戸や甲斐の商人が請け負っていた幕府の御用材の伐り出しに、安永6年(1777年)以降は大滝村の商人が関わるようになり、山林資源の利用を通して村の商人が成長したことを指摘しています。

木炭と演習林――明治から昭和へ

明治以降の大滝の林業について、桐村(1981)は林業経済の立場から整理しています。桐村によると、大滝村は林野面積約3万2千ヘクタールに対して耕地79ヘクタールという典型的な山村で、森林の約3分の2は国と県の所有に属し、残りの3分の1も大半が村外の有力者の手にありました。幕末期に私有化していた焼畑の耕作地は明治末から大正期にかけて旧名主層に集積され、村民が明治30年代に村外の商人や華族に売り渡した「稼山」を、大正初期に帝国大学が買い集めて演習林を設立した、と桐村は書いています。

東京大学秩父演習林の概要によると、演習林は1916年(大正5年)に大滝村内の民有林6,000ヘクタール余りを購入して設置され、現在の所管面積は5,812ヘクタールです。創設当初の林況は、炭焼きなどのための広葉樹伐採跡地とそれに類する区域が約2,000ヘクタール、人手の入らない原生的な老齢天然林が約3,800ヘクタールで、人工造林地は18ヘクタールにすぎませんでした。秩父市中心部から西へ22キロの大血川地区(932ヘクタール)と40キロの栃本地区(4,875ヘクタール)の二つの団地からなり、全域が秩父多摩甲斐国立公園に入ります。

桐村(1981)は木炭の歴史も追っています。明治初期までは旧名主層による木工品と木炭の小商品生産が行われていたが、大正初期に富山県から焼子集団が移住して新しい製炭技術をもたらし、第一次世界大戦を契機とする日本資本主義の発展が奥秩父山地の木炭供給地としての活況を生んだ。大正末年には東京に本社を置く関東木材が約80人の労働者を連れて演習林の木材を買い、川俣と矢竹沢のあいだに約3キロの軌道を敷いて製材工場を建て、伐り出しから製材、木工品と木炭の生産・販売までを行った、というのが桐村の記述です。

1936年9月の調べをまとめた『教化町村施設一覧』には、大瀧村の主な生産物として木炭41万俵、木材15万石、養蚕1万5千貫、蒟蒻4万6千貫などが並んでいます。焼畑の雑穀から、木炭・木材・蒟蒻へ。生業の重心は、山の木の方へ移っていました。

戦後――林業の衰退と鉱山、ダム

大滝の生業の移り変わりを江戸時代から現在まで5段の年表で示した図
大滝の生業の移り変わり。『新編武蔵風土記稿』、三木(1994・1996)、桐村(1981)、秩父演習林の概要、『教化町村施設一覧』、二瀬ダム管理所、荒川上流河川事務所、秩父市の計画の記述を年表に整理したもの(図:水のソムリエ編集部作成)

秩父市の都市計画マスタープランは、その後を次のように要約しています。かつては林業が盛んで、戦後は民有林を中心に多くのスギやヒノキが植林されたが、木材価格の低下と林業従事者の減少で、管理の行き届かない森林が増えた。かつて盛んだった秩父鉱山のあった小倉沢には2,000人以上が住んでいたが、現在は無居住になった、と。

大熊・山本(1973)は、大滝村の人口が1960年の8,202人から1970年の4,791人へと10年間で減ったことを示し、人口減少が始まった初期段階にある山村の変貌を、巣場(すば)と大達原(おおだっぱら)の2集落で調べました。立花ら(1998)は、大滝村の2集落の全世帯への聞き取りと他出した子ども世代へのアンケートから、友縁と社縁が弱まって血縁とわずかな地縁が残るのみになっていること、他出した子どもたちのUターンは現状では期待できないことを明らかにしています(抄録による)。

長尾(2018)は、公立学校が立地しなくなった大滝地区で小学校の統合がどう進んだかを調べ、人口減少や産業不振、ダム建設にともなう校区への諦めから、将来性の欠如した校区で統合に反対しても仕方がないという考えが生じ、統合が消極的に支持されたと論じました。小学校の存否と校区の将来性の認識とが密接に関連し、小学校が校区の「将来性の」象徴として機能していた、というのが長尾の指摘です。

栃本の関所と麻生の加番所

栃本は、焼畑と山稼ぎの村であると同時に、関所の村でした。文化庁の文化遺産データベースによると、栃本は東海道の箱根と中山道の横川の両関所の中間にあたり、江戸から甲州・信州への交通の要所に位置します。江戸初期から明治維新まで大村家が代々関守をつとめました。大村家は武田家の家臣で、主家の滅亡後にこの地へ移り、栃本組の名主も兼ねていたとされています。

『新編武蔵風土記稿』は、関所の様子をこう書いています。関門は東西の通路に立ち、番所は道の北側にあって関守の宅を兼ねる。道の南は数十丈の深い谷で荒川が流れ、「土地険阨一方口にて要害堅固の場所」だった、と。関門や柵、矢来の造営修復の費用は古大瀧村が出し、将軍の日光参詣のときには村中の者がここに詰めて警固するかわりに、伝馬役を免除されていたといいます。

1933年に埼玉県がまとめた調査報告には、明和8年(1771年)に関所守の名主が代官所へ差し出した文書「栃元麻生御関所之儀委細書上帳」が翻刻されています。

それによれば、関所は慶長19年(1614年)に伊奈半十郎が代官だったときに関所守を命じられて以来のもので、下流の麻生(あそう)には加番所が置かれ、村の百姓が交代で昼夜の番にあたっていました。関所の門は明け六つから暮れ六つまで開き、夜は公用のほかは通さなかったと書かれています。

同じ報告書によると、1933年当時、関所跡は旧関守の大村家の私有地で、一家が住んでいました。住宅は天保15年(1844年)ごろの建築と推定され、普通の農家とは造りが違い、「德川末期に於ける住宅兼関の俤今尙歴然たり」と記されています。文化庁のデータベースも、文政元年と5年の二度の火災で建物を失い、現存するものはその後の建て替えだとしています。

1884年刊の新編武蔵風土記稿に描かれた栃本関所の図。山の斜面に関所の建物と柵、畑と谷が描かれている
『新編武蔵風土記稿』(1884年刊)に載る「栃本関所之図」。関所の建物と柵、急な斜面の畑、谷が描かれている(出典:内務省地理局『新編武蔵風土記稿』巻之264(国立国会図書館デジタルコレクション・保護期間満了)を切り出し/パブリックドメイン)

関守の家の一年――大村家の「年中行事」

関守の大村家には、文政5年(1822年)に第8代当主が記した「年中行事」が伝わっています。三木(1994)はこの史料から、三峰山との付き合いを拾い出しました。1月7日には三峰山から御名代が来て雑煮と酒を出し、年玉として三峰山に400文、役僧と神領の代人には鼻紙を差し出す。12月には「三峰山へ寒気見舞」として、そば粉4升と400文を持たせ、酒・酒粕・足袋を返礼に受け取る。三木は、一家そろっての参詣は記録に見えず、いわば近所付き合いの形で三峰山とのやりとりがなされていたと読んでいます。

同じ「年中行事」の後半には、大村家に檀廻(だんまわり)に来た諸国の御師が記されています。三木によると、伊勢の御師2人は暦などの土産を、碓氷峠熊野宮の御師は蚕の御守を配り、榛名山・戸隠山・富士山・津島牛頭天王・愛宕山などの御師も初穂を受けていました。三峰山への初穂は年末年始合わせて800文で他の寺社よりはるかに多い一方、三峰山の霞(後述)である大滝村にも、諸国の御師が訪れていた。三木はここから、三峰山は大滝村でも「さまざまな信仰のひとつ」として存在していたと論じています。

栃本の関所跡は1970年に国の史跡に指定されました。ジオパーク秩父の解説では、関所の周りには古い建物が残り、「集落の急な斜面につくられた畑に、当地の昔からの生活が偲ばれる」と書かれています。風土記稿の挿絵に描かれた斜面の畑は、場所を変えながら今も続いているようです。

三峯神社とお犬さま――信仰の地理

三峯神社の三ツ鳥居と左右の狼の像
三峯神社の三ツ鳥居と、左右に置かれた狼(御眷属)の像(2009年5月)(写真:Mkun/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

大滝のもう一つの顔が三峯神社です。国土交通省の多言語解説文データベースによると、「三峰」の名はもともと妙法ヶ岳(1,332メートル)・白岩山(1,921メートル)・雲取山(2,017メートル)の三つの峰を指し、神社からその稜線が見えることから社名となり、やがて神社のある場所が三峰山と呼ばれるようになりました。神社の公式サイトによると、由緒は日本武尊が伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀ったことに始まると伝わり、このとき尊を道案内したのが狼(山犬)で、神の使いとして一緒に祀られているとされます。文武天皇のころに役小角が修行したと伝えられ、天文2年(1533年)に京都の聖護院から「大権現」の称号を受けて天台修験の関東総本山となり、観音院高雲寺と称しました。享保5年(1720年)に日光法印という僧によって「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まり、明治の神仏分離で寺院を廃して三峯神社と号した、というのが公式の由緒です。

『秩父郡誌』によると、祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊で、江戸時代は修験の山で別当の観音院が社務を扱い、1869年に神仏混淆の禁止で神社に戻って三峯神社と称しました。例祭は4月8日。奥宮は妙法岳の頂上にあり、1871年に「奥の院」から「奥宮」へ改称されました。

修験の「霞」と檀廻――三木一彦の論点

三木(1994)は、江戸時代の秩父地域で三峰信仰がどう受け入れられたかを、修験の組織から調べました。修験道では、里に住む修験(里修験)を支配する範囲を「霞(かすみ)」と呼びます。三木によると、『新編武蔵風土記稿』に見える19世紀初頭の秩父地域では、本山派の里修験が40坊と圧倒的に多く、越生の山本坊・秩父大宮の今宮坊・三峰山観音院の3坊の配下におよそ三分されていました。三峰山は寛文5年(1665年)に山本坊の霞の一部を譲り受け、元禄12年(1699年)にいったん今宮坊へ移されたのち、享保19年(1734年)にふたたび三峰山の霞とすることが認められました。元文4年(1739年)に山本坊へ返すよう命じられた際には、三峰山配下の里修験が「檀家もない百姓兼帯の修験で、ただ三峰信仰のゆえに修験をつとめている」と訴え、明和6年(1769年)に白久村を除く7か村が三峰山に返されたといいます。古大滝村栃本の長泉坊が、他の支配を受けるのは心外だとして還俗していたことも、三木は紹介しています。

三木が注目するのは「檀廻」です。享和3年から文化元年(1803〜04年)の「勧化帳」をもとにすると、三峰山の役僧は秩父地域のほぼ全域で村々を回って寄付を集め、大半は2朱という最小単位で、広く薄く人々から集めていました。そのなかで三峰山麓の大滝村では1両以上の勧進の割合が高く、「勧進帳」の冒頭に古・新両大滝村の名主や年寄計11名の名があることから、三木は、三峰山と大滝村のあいだには霞であるという以上に年中行事などを通した強いつながりがあったとみています。享保7〜8年(1722〜23年)に村人を施主として三峰山の末社が勧請された際も、施主は古・新両大滝村から圧倒的に多く、栃本の大村与市・久兵衛が正八幡を勧請したと三木は記しています。

三木(1996)はこの論点を広げ、三峰山は多種多様な信仰を取り込み、生産・流通の進展を背景に経済力をつけた人々とつながりを持つことで秩父地域における一定の地位を築いた、と結論づけました。三木(2001)はさらに江戸の三峰講を調べ、江戸では三峰信仰が火防・盗賊除けの信仰として受け入れられ、最も有力な講だった立川講が材木問屋や仲買を中心に江戸東部に住む商人で構成されていたこと、秩父が江戸への木材供給地の一つだったという商業的関係が信仰の浸透を助けたこと、火事の多い江戸で材木商にとって三峰の札が特別な意味を持ったことを明らかにしています。国立国会図書館が公開する歌川国貞の錦絵「三峯山御開扉参詣群集之図」は、その題のとおり、三峰山の御開扉に参詣する群集を描いたものです。

歌川国貞の錦絵「三峯山御開扉参詣群集之図」三枚続、三峰参詣の人びとと社殿
歌川国貞「三峯山御開扉参詣群集之図」(三枚続)。三峰山の御開扉に参詣する人びとを描いた錦絵(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵・パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

御眷属拝借

三峯神社の公式サイトは、神の使いであるオオカミを「大口真神」と呼び、親しみを込めてお犬様、ご神犬、御眷属様とも呼ばれると説明しています。古くから御眷属を御神札として1年間拝借し、地域や一家の守護を祈ることが行われ、これを「御眷属拝借」と呼びます。拝借料は1か年守護で要返納、「諸難除・火防・盗賊除」の願目に御祈祷神璽・火防之神璽・盗賊除神璽の3枚の付札がつく、と公式サイトは記しています。

神社の三峰山博物館は、山里では猪鹿よけ、町や村では火防・盗賊よけの霊験が語られ、信州・甲州や関東の村や町、江戸の町人たちが講社を組織して登拝したと説明し、江戸からの登拝路を名所案内記風にまとめた「三峰山詣」(天保6年)や諸国代参帳、講社登拝記録を常設展示しています。『秩父郡誌』は、信徒の講中が北海道から徳島まで一道三府二十二県に及んだと記しました。

お犬さまの正体について、植松朔子・竹本太郎(2026)は、かつて広く用いられた「ヤマイヌ」という呼称が、日本のオオカミ、野生化したイヌ、その混血、どちらでもない獣という四つの言説のあいだで揺れながら、外来の学問の受容などを経て「ニホンオオカミ」へ収束していったと論じています。三峯神社の狼が動物学上の何であったかは、この記事では立ち入りません。

妙法ヶ岳山頂の三峯神社奥宮と石段・玉垣
妙法ヶ岳の山頂に鎮座する三峯神社の奥宮。社の左右に狼の像が置かれている(2018年3月)(写真:Koda6029/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

年中行事――ごもっとも神事から獅子舞まで

三峯神社の節分祭は「ごもっとも神事」と呼ばれます。公式サイトによると、神職の祝詞のあと、裃姿の年男が三方にのせた福枡の豆を「福は内、鬼は外、福は内」と唱えてまき、後ろに控えた添人が大声で「ごもっともさま」と叫びながら、巨大な「ごもっとも様」を前上方に突き出します。ごもっとも様は長さ1メートル余りの檜のすりこぎ棒型のもので、頭に注連縄を巻き、根もとに蜜柑を二個さげたものです。五穀豊穣・夫婦和合・子宝・家内安全・悪霊退散に霊験あらたかといわれる、と公式サイトは書いています。

秩父地域おもてなし観光公社の「秩父お祭りカレンダー」には、歳旦祭(1月1日)、ごもっともさま(2月3日)、例大祭(4月8日)、奥宮山開祭(5月3日)、七夕祭り(8月7日)、奥宮山閉祭(10月9日)が並びます。三木(1994)によると、江戸時代の三峰山には諏訪祭(旧7月26日)・大日会(旧6月丑の日)・荒神供(旧2月吉日)といった末社のための祭礼があり、なかでも諏訪祭は数日を要する重要な祭事でした。

雪が積もった三峯神社の境内。石垣の上に極彩色の拝殿が建ち、杉の大木が立っている
雪の三峯神社の境内。石垣の上に拝殿が建ち、杉の大木が立つ(写真:Saigen Jiro/Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

郡誌が力を入れて書いているのが、その諏訪神社の祭典に行われる獅子舞です。「古来遠近に著聞す」と書かれ、舞手はもと神領だった大字三峯の村民で、猿田彦を先導に、雄獅子・雌獅子・大夫獅子が笛と歌方、牡丹の花笠をつけた四本柱とともに諏訪神社を三巡して式場に臨み、一本花・二本花・四本花・剣の舞の四種を舞いました。郡誌では祭典は8月26日とされています。

この獅子舞は今も続いています。お祭りカレンダーによると、三峰諏訪神社の獅子舞は8月第4日曜日に、白足袋に袴姿で前庭に敷き詰めた畳の上で舞われ、「じよなめき」「お座敷ざさら」「御殿ざさら」とも呼ばれています。三峯神社の公式サイトも、2026年4月8日の例大祭のため御祈願の奉仕時間が変わることを告知しています。秩父市の計画は、三峯神社を秩父神社・宝登山神社とともに秩父三社の一つに数え、現在は関東屈指の「パワースポット」として参拝客を集めている、と書いています。

霧に包まれた三峯神社の参道の石段と両側の石灯籠
霧の三峯神社の参道。講社などが奉納した石灯籠が石段の両側に並ぶ(2015年7月)(写真:WorldContributor/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

秩父の民俗研究では、栃原嗣雄の調査が知られています。内田幸彦(2022)の書誌紹介によると、秩父に生まれ育ち埼玉県立民俗文化センター所長などを務めた栃原の著書『秩父 山里の祭りと暮らし』には、正月・小正月行事、祭り、民俗芸能、狩猟伝承、お犬さま信仰、麦作や溜池灌漑など、50年以上にわたる秩父地域の調査が収められているといいます。この記事では同書は読んでいません。

栃の葉と栃の実――山の食

栃の葉で包む「つとっこ」

大滝を含む秩父の山里の食べものとして、埼玉県の秩父農林振興センターが紹介しているのが「つとっこ」です。県の資料によると、春浅い山里に新緑が薫るころ、裏山に登って栃の葉を摘み、つとっこを作る習慣が続いていて、秩父地方の山深いところで多く作られています。野良仕事の合間に食べたり、子どものおやつとして親しまれてきました。

作り方も県の資料に載っています。もち米と米を洗って一晩水につけ、小豆は崩れない程度に煮ておく。水気を切って混ぜ合わせたものを栃の葉2枚を合わせた上にのせ、わらできつくなく縛る。鍋に平らに並べ、かぶるくらいの水を加えて45分ほど煮て、手で押して柔らかくなっていればできあがり、とあります。

日本調理科学会の特別研究「次世代に伝え継ぐ日本の家庭料理」で埼玉県を担当した駒場千佳子ら(2021)は、秩父市を含む県内8地域9か所の聞き書きから昭和30〜40年代の行事食をまとめ、穀倉地帯のいがまんじゅうや塩あんびんに対して、山林地帯の特徴的な料理として正月の「とち餅」(栃の実を利用)と端午の節句の「つとっこ」(栃の葉を利用)を挙げています。土屋京子ら(2017)は同じ調査からおやつの特徴を整理し、米と麦の両方を栽培する土地柄から、めし焼き餅やぼた餅、米粉の団子や草餅、小麦粉の炭酸まんじゅう・茹でまんじゅう・たらし焼きなどが作られていたと報告しました。

落ち葉の上で殻が割れたトチノキの実と種子
殻が割れて種子がのぞくトチノキの実(他地域の参考写真)。大滝では水に晒して煮る「トチザラシ」でアクを抜いた(写真:Alpsdake/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

栃の実の晒し方――辻稜三の論点

栃の実そのものの食べ方については、辻(1997)が秩父山地を含む三つの山地で地域差を比べています。辻によると、栃の実はアクを含むため生では食べられず、アク抜きの方法は縄文中期後半に見いだされたと考えられています。秩父山地一帯には縄文型の加工食品が広く残り、大滝村には水に晒して煮沸する「トチザラシ」があり、歯で皮をむく古い習慣も残っていて、灰汁で練るアク抜き(ねりあく)も用いられている、と辻は報告しました。三信遠の国境山地に見られる皮むきの木製道具「トチムキ」は秩父では見られない、というのが辻が示す地域差の一つです。

栃の葉で包んで煮る、栃の実を晒して餅にする。この二つには、水と山の木が同時に登場します。『新編武蔵風土記稿』が大瀧村の土産(土地の産物)として、蕎麦や岩茸、山鳥や猪・鹿を挙げているのと重ね合わせると、山の木の葉や実で穀物を包み、増やす食べものが、この土地の食の一つの形だったことがうかがえます。大村家が三峰山への寒気見舞いにそば粉4升を持たせたこと(三木1994)も、風土記稿の「土産」の蕎麦と重なります。ただし、つとっこがいつごろから大滝で作られてきたかは、公開資料では確かめられませんでした。

数字で見る変化

江戸時代、昭和前期、戦後、現在。出どころの違う数字を、違いを明記したうえで並べます。

『新編武蔵風土記稿』(1884年刊)は、古大瀧村の民家を六組合わせて172軒と記し、組ごとに大久保組17軒、下納組20軒、上中尾組33軒、栃本組41軒と書いています。単位は「軒」です。

1936年9月の調べをまとめた『教化町村施設一覧』では、大瀧村は1,081戸・5,553人(男2,969人・女2,584人)で、23の部落の戸数が並んでいます。栃本60戸、麻生26戸、上中尾26戸、大久保33戸、三峯75戸、中津川105戸、落合66戸、大輪49戸などです。単位は「戸」と「人」で、江戸時代の「軒」と直接には比べられません。

戦後の数字は国勢調査です。大熊・山本(1973)は大滝村の人口を1960年の8,202人、1970年の4,791人と示しました。秩父市の都市計画マスタープランによると、大滝地域の人口は1960年の8,202人がピークで、二つのダム建設に伴う集団移転や秩父鉱山の操業縮小などを理由に、60年間で7,414人、90.3%減りました。2040年には238人まで減ると予測され、高齢化率は一部を除く大半の町丁大字で40%を超えています。

二つのダムのうち、二瀬ダムは国土交通省の資料によると「荒川総合開発計画」の一環として1961年に完成した荒川水系で初めての多目的ダムで、二瀬ダム管理所は水没補償の対象を家屋30戸、田畑3.5ヘクタール、山林66.2ヘクタール、道路付替4,700メートル、発電所1か所としています。滝沢ダムは荒川上流河川事務所によると2008年に完成し、関東地方整備局の事業評価資料では1969年度に実施調査が始まり、2010年度に建設が完了しました。滝沢ダムの水没戸数は、公開資料では確かめられませんでした。

谷をまたぐ国道140号のループ橋、雷電廿六木橋と奥の滝沢ダム
滝沢ダムの下の谷に架かる国道140号のループ橋、雷電廿六木橋(らいでんとどろきばし)。奥に滝沢ダムの堤体が見える(2008年8月)(写真:K.F./Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)
新緑の谷に立つ二瀬ダムのアーチ式の堤体
二瀬ダム(1961年完成・アーチ式コンクリートダム)を下流側から(2013年5月)(写真:Qurren/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

道の駅と資料館

いまの大滝の暮らしと観光の拠点が、荒川のほとりの道の駅大滝温泉(秩父市大滝4277-2)です。施設の公式サイトによると、日帰り温泉「遊湯館」を中心に、食事処や特産品販売所、大滝民俗資料館が併設されています。資料館は、近代産業の発展と戦後の急激な社会変動で郷土の民俗文化遺産が散逸しつつあることをふまえ、民具や道具を収集・展示する施設と説明されています。

秩父市の計画は、三峯神社と周辺の観光資源を道の駅大滝温泉と結びつけて周遊性を高めることを、大滝地域の将来像の一つに掲げています。三峯神社、中津峡、キャンプ場、三十槌の氷柱など、山と川を背景にした観光が、この地域の現在の生業の一部になっています。

荒川沿いの崖に無数の氷柱が下がり、手前を荒川が流れる三十槌の氷柱の冬景色
荒川沿いの三十槌(みそつち)の氷柱。冬の大滝の名所として秩父市の計画にも挙げられている(写真:Σ64/Wikimedia Commons・CC BY 3.0)

この地域の水

大滝の暮らしの中の水を、地誌と公開資料から拾うと、次のようになります。

関所を守った谷の水

一つめは、関所を守った谷の水です。『新編武蔵風土記稿』は、栃本の関所について、道の南は数十丈の深い谷で荒川が流れ、一方口の要害堅固な場所だと書いています。文化庁のデータベースも、関所の前面は眼下に荒川の渓谷をのぞむ位置にあるとしています。荒川の谷は、関所にとって柵の代わりでした。

深い谷の底を流れる栃本付近の荒川の淵と河原
栃本付近の荒川。深い谷の底を流れ、左下に栃本発電所の取水堰が小さく見える(2013年5月)(写真:Qurren/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

二つめは、村名のもとになった滝と泉です。『秩父郡誌』は、村内いたるところ高い峰が連なり、谷から湧き出す泉の流れが落ちて音を立てるとして、大瀧の名がふさわしいと書き、不動滝・駒ケ滝などいくつもの滝を挙げています。三峯神社の参拝道も、荒川に架かる大輪橋(登龍橋)を渡って始まりました。神社の公式サイトは2026年9月に登竜橋の補修工事を告知しており、橋は今も参道の入口です。

荒川の源流と水収支

三つめは、荒川の流れそのものです。郡誌によれば、荒川は大字大瀧の西方の真ノ沢に発し、木賊谷の谷川を合わせて東北に流れ、大洞川と中津川を合わせ、さらに大血川を呑んで下流の村へ入ります。中津川は大字大瀧の落合で荒川に入ります。東京大学秩父演習林の概要は、支流の赤沢と入川が合流する「出合い」から一級河川としての荒川が始まると説明しています。

国土交通省の荒川上流河川事務所によると、荒川は埼玉・長野・山梨の県境の甲武信ヶ岳に発し、「一級河川荒川起点の碑」から東京湾までの長さは173km、流域面積は約2,940平方kmで、そのうち埼玉県内が約2,550平方kmを占めます。

雲海の上に立つ緑の三角形の峰、荒川の水源の甲武信ヶ岳
荒川の水源・甲武信ヶ岳(2,475メートル)。木賊山の直下から見たもの(2007年7月)(写真:Σ64/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

源流域の水の量を測った研究があります。浅野友子・鈴木智之(2021)は、山地帯林と亜高山帯林からなる秩父山地の川又流域(標高628〜2,475メートル、流域面積94平方キロ)で、レーダー雨量と流出量の観測から2009〜2018年の年水収支を求めました。平均すると年降水量1,747ミリ、年流出量1,375ミリ、年損失量372ミリで、損失量をほぼ蒸発散量とみなすと、川又流域の蒸発散量は関東地方の標高の低い流域より数百ミリ小さく、北海道や東北の冷温帯林・亜寒帯林の流域と同程度だと浅野らは論じています。降った雨の8割近くが川へ流れ出る、ということです。

その水を使う人の数は大きいものです。同事務所によると、荒川の流域人口は約1,020万人で日本の川で3位、武蔵水路経由で利根川から来る水も含めた荒川の水利用人口は、流域外を含めて約2,070万人にのぼります。荒川の水は農業用水や発電用水、水道用水として広く使われ、秩父市の都市計画マスタープランは、大滝地域を「首都圏に良質な飲料水を安定的に供給する水源地」と位置づけています。

その水を蓄えるのが、大滝のダムです。荒川上流河川事務所によると、二瀬ダム(1961年完成・アーチ式コンクリートダム・堤高95メートル・総貯水容量2,690万立方メートル)は洪水調節、下流沿岸8,603ヘクタールへの灌漑用水の補給、発電を目的とし、滝沢ダム(2008年完成・重力式コンクリートダム・堤高132メートル・総貯水容量6,300万立方メートル)は洪水調節と流水の正常な機能の維持、埼玉・東京で最大毎秒4.6立方メートルの水道用水の確保を目的としています。

滝沢ダムの堤体と青い湖面の奥秩父もみじ湖
滝沢ダムと奥秩父もみじ湖(2013年5月)(写真:Qurren/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

雨の量も見ておきます。気象庁の平年値(1991〜2020年)では、三峰の観測所の年降水量は1,635.6mmで、9月の281.8mmが最も多く、12月の39.1mmが最も少なくなっています。降水量だけを観測する地点のため、積雪や気温の平年値はありません。

いまの飲み水

四つめは、いまの飲み水です。大滝の家々が飲んでいるのは、荒川の本流の水ではありません。埼玉県がまとめた「市町村等水道の水利権取得状況」(2024年3月31日現在)によると、旧大滝村の区域には秩父広域市町村圏組合の浄水場が6か所あり、いずれも普通河川の表流水を水源にしています。

落合浄水場は栗尾沢、栃本浄水場は滝川の支流・豆焼沢のさらに支流のワサビ沢、中津川浄水場は中津川の支流・大若沢、中双里浄水場は井戸沢、三峰浄水場は大砥沢の支流・細谷沢、大血川浄水場は大血川の支流・西谷沢です。

取水量はどれも小さく、同じ表では栃本浄水場が日量386立方メートル、落合浄水場が249立方メートル、大血川浄水場が206立方メートル、中津川浄水場が100立方メートル、三峰浄水場が88立方メートル、中双里浄水場が13立方メートルです。

なお、栃本浄水場の取水地点は秩父演習林の敷地の一部で、土地の使用貸借契約によるものと表にあります。首都圏に水を送り出す源流の集落が、自分たちの飲み水は目の前の小さな沢から引いている。それが、大滝の水のいまの姿です。

秩父市大滝の栃本関跡・三峯神社・妙法ヶ岳・雁坂峠と荒川の谷の位置関係を示した地図
栃本関跡・三峯神社・妙法ヶ岳・雁坂峠と荒川の谷の位置関係(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

水のソムリエの名水記事では、大滝地域の湧水や名水を取り上げたものはまだありません。環境省の名水百選に選ばれた秩父の武甲山伏流水は、秩父市街の宮地にあり、大滝とは別の場所です。

行く・買う

三峯神社(秩父市三峰298-1)へは、秩父市の計画によると西武秩父駅から三峯神社方面への路線バスが運行されています。栃本関跡(秩父市大滝1623)は、ジオパーク秩父の案内では「栃本関所跡」バス停下車すぐで、駐車場はありません。秩父宮記念三峰山博物館は、神社の公式サイトによると観覧時間が午前9時から午後4時、毎週火曜日と冬期間(12〜3月)が休館です。

道の駅大滝温泉(秩父市大滝4277-2)には日帰り温泉「遊湯館」と大滝民俗資料館があり、遊湯館は4〜11月が10時から20時、12〜3月が10時から19時で木曜定休です。出かける前に各公式サイトでご確認ください。

出典

一次資料(政府機関・公的機関の公表資料、研究論文、施設の公式サイト)。リンクの到達性は2026年10月13日に確認しました。研究報告・論文は、本文で「著者(年)」の形で参照しています。J-STAGE の論文のうち本文PDFを読まなかったものは、記事ページの抄録または1ページ目による旨を記しています。

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