乳頭温泉郷の鶴の湯温泉の木造の湯小屋と沢に、秋田県の輪郭を重ねたアイキャッチ

湯治の山 乳頭と後生掛(秋田県)の湯と暮らし【水と地域文化】

秋田県の東、岩手県との境をなす奥羽山脈の山ふところに、二つの温泉地があります。一つは仙北市田沢湖の乳頭温泉郷、もう一つは鹿角市八幡平の後生掛温泉です。どちらも十和田八幡平国立公園の中にあり、ブナの林と噴気の立つ火山地形に囲まれています。

乳頭温泉郷の鶴の湯は、仙北市の観光情報で「乳頭温泉郷の中で最も古い歴史を持ち、秋田藩主の湯治場だった由緒ある温泉」と紹介されています。後生掛温泉は、公式サイトによれば「開湯三百余年」の一軒宿で、天然の地熱で部屋を温めるオンドルを特色にしています。

この二つの温泉地を取り上げるのは、ここに「湯治」という暮らしの形が、藩主の湯治から庶民の自炊湯治、そして現在の湯めぐりや旅館の営業まで、資料でたどれる形で残っているからです。

この地域の水(要約)

鶴の湯温泉の板壁の湯宿と、その脇を流れる石の多い沢
乳頭温泉郷・鶴の湯温泉の湯宿と、その脇を流れる沢(写真:lumoplank/Wikimedia Commons・CC0)

詳しくは「この地域の水」へ

この記事の資料について

この土地は、研究の対象としても長い歴史があります。湯治については、山﨑瑞季ら(2024)が十和田八幡平国立公園の湯治場の変遷を、内田彩(2011)が江戸後期の湯治の変容を、萱場倫夫(1979)が玉川温泉の湯治客の実態を調べました。

玉川の酸性の水「玉川毒水」については、齋藤文雄(1927)、溝口三郎(1938)、吉村信吉(1942)、三浦彦次郎(1939)が戦前に調査と除害の研究を重ね、中川実・酒井不二彦(1996)が江戸時代の除毒の試みを、片村新ら(2024)が中和処理後の田沢湖の水質を論じています。

火山と地熱については、大場司(1993)と南裕介ら(2023)が秋田焼山を、湯原浩三ら(1985)が後生掛の大湯沼を、鹿野和彦ら(2020)が田沢湖カルデラを調べました。

暮らしの側では、鹿角市史(1996)が温泉とくらしを、杉浦直(1980)と濱定史ら(2007)が仙北地方の家屋と板倉を、荒谷由季子(2023)がきりたんぽの来歴を、工藤達貴・日下博幸(2022・2024)が田沢湖畔の局地風「生保内だし」を扱っています。

この記事は、こうした公開されている研究と、鹿角市史や仙北市・鹿角市の公表資料、施設の公式サイトなど、公開されている資料だけで書いています。

火山と湯と雪――地形と立地

焼山と八幡平、湯の出どころ

乳頭温泉郷と後生掛温泉は、どちらも火山の上にあります。後生掛温泉の北にそびえる秋田焼山は、大場司(1993)によれば、大量の紫蘇輝石普通輝石安山岩のマグマが溶岩流と降下火砕物として噴出してできた成層火山で、その後、中央火口からの噴火、山腹噴火を経て、火口内にデイサイトの溶岩ドームが貫入しました。南裕介ら(2023)は、過去6000年間に秋田焼山から少なくとも9層の降下火砕物が出たことを野外調査と放射性炭素年代から示し、その中に1678年、1892年、1951年、そして1997年の噴出物が含まれると書いています。1997年には5月に山腹の澄川温泉で地すべりと土石流が起き、8月に山頂の空沼で水蒸気爆発が起きました。伊藤驍(1998)によれば、澄川の地すべりは典型的な温泉余土の地すべりで、特別豪雪地帯の融雪期に、発生前の大雨の後に起きています。

緑の山腹と白い火口付近が見える秋田焼山
栂森から見た秋田焼山(2010年9月)。大場(1993)によれば安山岩のマグマが積み重なった成層火山で、南ら(2023)は過去6000年間に9層の降下火砕物を数えた(写真:らんで/Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

後生掛温泉の周辺は、湯原浩三ら(1985)が「熱い池、噴気孔、温泉、沸騰泉、泥火山といった地表の地熱現象が集中する地域」と書いた後生掛地熱地域です。その中心にある大湯沼は面積約3000平方メートル、西半分は深さ10メートルを超え、湖面の平均温度は1982年で83.4℃、1983年で81.0℃でした。水温は表面から1〜2メートルで徐々に上がり、10メートルまでほぼ一定、その下で急に上がって湖底の直上では約120℃に達する、と湯原らは報告しています。泥火山については、小林真輝人ら(2018)が、世界の多くの泥火山が低温の流体を噴き出すのに対し、後生掛の泥火山は仙岩地熱地域にある高温型で、泥に供給される流体の温度が常温から100℃に及ぶことを書いています。

白い地熱地帯の中の大湯沼と木道
後生掛自然研究路から見た大湯沼(左)と泥火山の多い一帯(2022年10月)。湯原ら(1985)は大湯沼の面積を約3000平方メートル、湖面の平均温度を80度余りと測った(写真:らんで/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

乳頭温泉郷の南には秋田駒ヶ岳があります。和知剛ら(1997)は、この火山から1万3500年前以降に噴出したテフラを13層に分け、噴火が1万3500〜1万1600年前、1万〜7100年前、4000〜1000年前の三つの時期に集中していたことを示しました。最初の時期の噴火では、生保内火砕流堆積物が生じています。田沢湖も火山がつくった湖です。鹿野和彦ら(2020)は、湖底にある辰子堆という溶岩ドームのデイサイトから1.73±0.08Maの年代を得て、田沢湖カルデラの形成が170万年以前にさかのぼることを示唆しています。

強酸性の湯と、その流れ

玉川温泉は、乳頭温泉郷の北、玉川の上流にあります。南英一(1954)は、玉川温泉を「秋田県仙北郡を流れる玉川の一支流渋黒川の上流地帯、田沢村大字玉川字渋黒沢(海抜750メートル)で湧出し、鹿湯川となって温泉川に合流する」ものとし、主要な源泉「大噴(おおぶき)」の湯がpH1.3、水温97℃で、酸性の成分が塩酸であることを書いています。南によれば、この温泉はかつて「鹿湯(しかゆ)」「渋黒温泉」と呼ばれ、昭和10年ごろに「玉川温泉」と改名されました。齋藤文雄(1927)は大正15年(1926)8月に田沢村字鹿の湯温泉に泊まって玉川毒水の水源地を調べ、「大噴」が毒水本流の湧出源で、海抜700メートルの爆裂火口のほぼ中央にあり、温度は95度から98度の間だと記しています。佐藤比奈子ら(2010)は、大噴の湯を塩化物・硫酸塩型(pH1.2)、周囲の湯を硫酸塩型(pH1.8〜2.9)と中性型(pH6.1)に分け、大噴の湯は焼山火山の深部に由来し、温泉地の下を流れる量は毎分1万3000リットルと見積もっています。

この強酸性の水が渋黒川から玉川に入り、「玉川毒水」と呼ばれてきました。その歴史は「この地域の水」の節で見ます。

黄色い硫黄が付いた玉川温泉の噴気孔と木道
玉川温泉の噴気孔と硫黄(2017年10月)。南(1954)は主要な源泉「大噴」の湯を pH1.3・97℃と記録した(写真:Raita Futo/Wikimedia Commons・CC BY 2.0)

豪雪と局地風

乳頭温泉郷は、仙北市の過疎地域持続的発展市町村計画が積雪1メートルを超える豪雪地帯と書く土地にあります。雪は湯治場の景観であると同時に、危険でもあります。佐藤威ら(2007)は、2006年2月10日に鶴の湯の裏山の3か所で相次いで発生した乾雪表層雪崩を調べ、強い降雪が続く中で新雪層の安定度が下がり、内部にできた弱層をすべり面として発生したと報告しています。この雪崩では1名が亡くなり、16名がけがをしました。火山の湯には、もう一つの危険もあります。野上健治ら(2015)は、2015年3月18日に乳頭温泉郷で、温泉を引く配管の周囲にできた雪洞の中で作業員2人と市の職員1人が硫化水素により亡くなった事故を調べ、引湯管から漏れた硫化水素が雪洞に充満したものと推察しています。

田沢湖の東岸、生保内(おぼない)の集落には「生保内だし」と呼ばれる東寄りの局地風が吹きます。工藤達貴・日下博幸(2022・2024)によれば、この風は400年以上前から民謡で「七日も八日も吹けば宝風」と歌われ、稲の豊作をもたらす風として地元で重宝されてきました。アメダスの記録を調べた工藤らは、生保内だしが4月から9月によく吹き(73.8パーセント)、継続時間は2日以内がほとんど(90.2パーセント)で、民謡が歌うような7日以上吹き続ける事例は見つからなかったと書いています。夏の生保内だしはヤマセに伴って吹き、生保内の気温は平年より低く、「夏に涼しい風が吹くから宝風」という郷土史家の説のほうが正しいことを統計で示したのがこの研究です。

青い稲の田が広がる生保内の田園と遠くの山
生保内の田園(2012年8月)。工藤・日下(2024)によれば、ここに吹く東寄りの局地風「生保内だし」は民謡で「七日も八日も吹けば宝風」と歌われてきた(写真:掬茶/Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

「湯治場」と呼ばれてきた土地

乳頭温泉郷と八幡平の温泉は、古くから「湯治場」として知られてきました。鶴の湯温泉の公式サイトは、寛永15年(1638年)に二代目秋田藩主の佐竹義隆が、寛文元年(1661年)に亀田藩の岩城玄蕃が、鶴の湯に湯治に訪れたと伝えられると書いています。一般の客を相手にした湯宿としての記録は、元禄時代(1688〜1704年)から残っているといいます。

鶴の湯の名は、地元の猟師の勘助が、猟の際に傷ついた鶴が湯で傷を癒すのを見つけたことに由来するとされ、開湯のころは「田沢の湯」と呼ばれていたと公式サイトは説明しています。茅葺き屋根の「本陣」は、藩主が湯治に訪れた際に警護の者が詰めた建物として、今では鶴の湯を代表する建物になっています。

茅葺き屋根と黒い板壁の鶴の湯の本陣
鶴の湯温泉の茅葺きの本陣(2022年10月)。公式サイトによれば、藩主の湯治の際に警護の者が詰めた建物で、数十年ごとに葺き替える(写真:掬茶/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

明治35年(1902年)の『秋田案内』には、田沢村の温泉として「鶴の湯」が挙げられ、白湯(冷の湯)・小滝・大滝・黒湯(熱の湯)などがあって共に硫黄泉であること、「蟹の湯」が塩類泉であること、そして玉川に「鳩の湯温泉」があることが記されています。大正元年(1912年)の『仙北郡案内』も、田沢部落の東北三里に鶴の湯と蟹の湯があり、田沢部落を北にさかのぼれば約五里のところに鳩の湯があると書いています。

後生掛温泉については、鹿角市史(第4巻 民俗)が「御所懸、御所之湯とも呼ばれ、蒸ノ湯などと同じ頃に硫黄山として開発されたといわれている」としつつ、「古くから湯治場として開発されたと思われるが、由来はわからない」と記しています。名前については、国土交通省の多言語解説文データベースに、妾(オナメ)と本妻(モトメ)が噴気孔に身を投げたという悲恋の伝説と、「後生を掛ける」という言葉がちぢまって「後生掛」になったという説明が載っています。

湯治場という言葉そのものの歴史も、研究があります。内田彩(2011)は、江戸時代の温泉は基本的に療養の場でしたが、旅の大衆化とともに楽しみの場の顔を持ち始めたとし、温泉を訪れた人びとの日記や出版物を通じて温泉の情報が流通し、それが行き先と過ごし方の選択に影響した、と書いています。山﨑瑞季ら(2024)は、十和田八幡平国立公園の湯治場の変容をたどり、国立公園制度の中で温泉は当初レクリエーションの拠点として把握されていたが、やがて自然と切り離せない文化景観として評価されるようになったこと、観光化の影響を受けながらも現在も湯治場が多く残っていること、一方で湯治文化を知らない観光客が増えていることを指摘しています。

藩主の湯から庶民の湯治へ

鹿角市史は、藩制時代の湯治を「藩主の湯治」「藩士の湯治」「庶民の湯治」の三つに分けて書いています。ここでは市史の記述に沿って、鹿角の温泉で湯治がどのように営まれていたかを見ていきます。

藩主と藩士の湯治

万延元年(1860年)8月、盛岡藩の第14代藩主・南部利剛が大湯温泉(鹿角市)を訪れ、8月10日から23日まで大湯下ノ湯に止宿しました。市史が引く『両鹿角扈従日記』によれば、藩主の入浴は一日三度で、入浴のたびに拍子木で合図をしてから湯に入り、藩主の入る「壱番の湯」は御留湯・鍵湯などとも呼ばれ、「貴き人ならでは入れぬ」湯坪とされていました。以下、弐番の湯、三番の湯と、身分によって入る湯が分けられていたといいます。

盛岡藩士の場合は、湯治御暇願を藩の目付役に出して許可を得てから湯治に出かけました。湯治の日数は「一廻」「二廻」と数え、一廻はおおよそ五日から七日間で、湯の効能によって日数が定められていたと市史は記しています。湯治先は大湯が多く、湯瀬や蒸ノ湯は少なかったとのことです。

渓谷の川と赤い橋、川沿いのホテルが見える湯瀬温泉
鹿角市の湯瀬温泉(2018年9月)。市史によれば藩士の湯治先は大湯が多く、湯瀬や蒸ノ湯は少なかった(写真:Marho/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

湯坪と湯守

庶民の湯治について、市史はまず「湯坪」を説明しています。温泉の源泉が湧き出しているところを湯坪といい、大湯下ノ湯の湯坪は方五尺ほどの石積みで、そこから樋で湯小屋に湯を掛け、そばの清水も樋で引いて、熱ければ水を加え、ぬるければ湯をさして入ったといいます(市史が引く『鹿角縁記』による)。

共同浴場の清掃や建物の修繕、温泉の管理は、近代になると総代が話し合って湯守を決め、湯守に任せていました。湯守は浴場を利用する家々から、年に一回、入湯料として米を集めて歩き、その量は家ごとの利用の程度に合わせて一升とか三升と定められていました。市史によれば、終戦後は湯守も不在となり、大湯の場合は財産区の管理に変わっています。

深い雪に覆われた黒湯温泉の木造の湯小屋と、雪の間を流れる湯
雪に埋もれた黒湯温泉の湯小屋(1980年撮影・写真:松岡明芳/Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

自炊・湯見舞・丑の湯――湯治の暮らし

湯治宿と自炊

田植え上がりや秋の収穫が終わった後の湯治は、長い期間にわたることが多かったと市史は書いています。病気を持つ人や産後・病後の人、裕福な家の老夫婦などには、一か月や半年にわたる湯治をする人もあり、一般には三日・五日・七日などを目安に「一廻」「二廻」と期間を定めていました。

湯治の間は自炊がほとんどだったため、その長さに合わせて食料や衣類を準備し、馬車や馬ソリで荷物を運びました。温泉場には湯治宿(湯宿)があり、湯治する人たちは食糧を持ち込んで自炊し、近くの山に登って山菜やきのこを採りました。夜は宿に泊まる人たちが集まって民謡や昔話を語り合い、他の土地の人びとと交流したといいます。湯瀬や大湯の旅館・ホテルには、もとは湯治宿だった例が少なくないと市史は記しています。

湯治客が誰だったかは、医学の側からの調査があります。東北大学の萱場倫夫(1979)は、昭和52年(1977)6月に玉川温泉で376人(男149人・女227人)の湯治客にアンケートをとり、60代が29.4パーセント、70代が23.4パーセントと高齢者が大半を占めたこと、来湯の目的は病気療養・病後保養・持病に関係するものが47.6パーセント、静養や健康増進が45.7パーセントだったこと、医師の指導で温泉地を選んだ人は13.5パーセントだったことを報告しています。萱場によれば、玉川温泉は積雪のため冬季は閉鎖され、5月から11月までの間に約7万人が利用していました。

噴気の中に建つ玉川温泉の湯治宿と木道
玉川温泉の湯治宿と源泉地帯の木道(2017年10月)。萱場(1979)は1977年に湯治客376人を調べ、冬季閉鎖の5〜11月に約7万人が利用すると書いた(写真:Raita Futo/Wikimedia Commons・CC BY 2.0)

湯見舞と湯当り

誰かが湯治に行くと、近親者や知り合いは「湯見舞」といって酒・魚・鶏・餅などを持って押しかけるものだったといいます。十日ほどの湯治の間に三〜四組の見舞人があれば退屈せずに過ごせたとされ、見舞う側も一緒に入浴し飲食をともにして骨休めをして帰るのが楽しみの一つでした。

一方で、一日に何度も入浴するうちに「湯当り」になる人もありました。市史が引く明治28年の『内田慎吾日記』には、大湯で湯治五日目に湯当りで腹下りになった様子が記されています。江戸時代の『大湯温泉略縁記』には、酒を飲んだときは湯に入らないこと、一日三回以上の入浴をしないこと、湯治中は大飲・大食をしないことなどの禁忌が並んでいたと、市史は紹介しています。

丑の湯と温泉の神

夏の土用丑の日には「丑の湯」といって湯治に出かけました。農作業を片付けてから定宿に向かい、気の合った仲間同士で持ち寄ったご馳走を食べたり、ドジョウ汁を作ったりしたといいます。温泉地では薬師神社や浴場を飾って人びとを迎え、民謡や田舎相撲の興行が行われることもありました。市史は、農作業の骨休めだった丑の湯の湯治が、いまは温泉祭として続いていると書いています。

鹿角の温泉の信仰は薬師信仰が中心です。市史によれば、温泉の守り神として大湯下ノ湯の薬師神社や湯瀬の薬師神社(現在は神明社に合祀)があり、旧暦4月8日は「薬師参り」の日として、ご馳走を食べ、入浴をして楽しみ、休養する日でした。現在は新暦の5月8日に行われています。大湯荒瀬では、共同浴場の裏の大湯川沿いに小さな木造の祠と石碑があり、浴場を使う人たちが祭日にご馳走を持ち寄り、石碑を拝んだあとに飲食を楽しみ、温泉祭の日にも石碑を飾って拝む、と市史は記しています。

もう一つ、八幡平の温泉に集中しているのが金勢(こんせい)信仰です。市史は、男性器の形をしたものを御神体とする性神で子宝を授けるとされ、八幡平温泉郷に集中していることは興味深いと書いています。中でも蒸ノ湯の金勢神社は以前は全国的に知られ、毎年6月13日の祭には知恵をしぼった仮装行列や踊りも出て盛大に行われました。蒸ノ湯のほかに後生掛・赤川・澄川にも金勢神社や石祠が祀られ、木製や石づくりの金勢神が安置されています。市史は、こうした参拝者は長期の湯治に夫婦で来る例が多く、温泉場を賑やかにしてくれたとも書いています。

湯治の一年と温泉の行事を月ごとに縦に並べて示した図
湯治の一年と温泉の行事。鹿角市史の記述、文化遺産オンライン、乳頭温泉組合と後生掛温泉の案内、萱場(1979)から、農事と湯治・行事・営業期間を1枚に整理したもの(図:水のソムリエ編集部作成)

蒸ノ湯と後生掛――地熱に蒸される湯治

蒸ノ湯温泉の木の露天風呂に湯が注ぎ、背後の斜面から白い噴気が上がっている
蒸ノ湯温泉の露天風呂と噴気(写真:Koda6029/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

蒸ノ湯の湯治客

八幡平の温泉のうち、市史がもっとも詳しく書いているのが蒸ノ湯温泉です。マタギが熊を追っていて発見したという言い伝えをもち、熊沢ノ湯・吹ノ湯などとも呼ばれてきました。藩制時代は熊沢硫黄山として硫黄が採掘され、市史が引く『鹿角山林帳』には「湯御礼銭壱ケ年拾貫文 宝永年中より始、湯守重太」という記事があるといいます。

明治以降は谷内の阿部藤助の開発で温泉への通路が完成し、東北・北海道から関東方面まで、湯治客が長期間にわたって入浴生活をするようになりました。明治40年の『内田慎吾日記』には、秋田・青森・岩手方面から参って三百人もいる時もあるという記述があり、明治38年の『温泉取立帳』からは、一週間以上、半月ほど自炊しながら泊まる人が多かったこと、尾去沢や小坂などの鉱山地帯から来る人が多かったことが分かると市史は書いています。

鹿角市史(第3巻 下)によれば、阿部藤助は大正3年に28歳の若さで宮川村の村長に就任した人物で、八幡平の観光コースは当時、谷内から坂比平、蒸の湯、頂上、後生掛、又一、鹿湯(玉川)と探勝するのが一般的で、行程はすべて徒歩のため二泊か三泊を必要としました。蒸の湯には岩手・秋田・青森に加えて北海道から毎年三〜四百人の湯治客があり、昭和4年の一日当たりの湯治費用は13銭という安さだったと市史は記しています。

「人間をふかす」湯

市史は、昭和10年に蒸ノ湯を訪ねた文筆家・杉村楚人冠の文章「天下の珍湯・フケの湯」を引いています。それによると蒸の湯は旧噴火口の跡にできた温泉場で、浴舎が十余棟並び、普通の温泉浴槽は二か所だけで、その他はことごとく浴舎の中で地熱に蒸される仕組みでした。「人間をふかすのだから、即ちフケノユと名づける」というのが楚人冠の説明です。

浴舎は大小十二棟ほどあり、一棟に三、四十人を入れ、幅三尺くらいずつ丸太で仕切ったのが一人分の寝床であり、座席であり、炊事場でもあり、浴場でもあったといいます。土間にじかに敷いた茣蓙の上に寝転び、毛布をかけていれば、地熱が茣蓙を通して身を温めてくれる。浴衣一枚でこの地熱に蒸されて夜を明かし、日も暮らす――そう楚人冠は書いていたと市史は伝えています。

昭和37年にはアスピーテラインが開通して交通の便が良くなりましたが、昭和48年5月12日に地すべりが発生し、温泉施設の大部分が埋まる災害に見舞われました。市史は、現在は近代的なホテルが建築され、昔のおもかげは失われたと記しています。

後生掛温泉の噴出口の周りに湯気が立ち、木の樋が湯を導いている
後生掛温泉の自然研究路にある噴出口「オナメ・モトメ」(写真:らんで/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

後生掛のオンドル

地熱に蒸される湯治は、後生掛温泉でいまも続いています。後生掛温泉の公式サイトは、付近一帯の活発な火山活動で生じる豊富な地熱や蒸気を、直接または木樋などで床下に通して部屋を床から温める仕組みを「後生掛式オンドル」と呼び、オンドル室内は通年で30℃以上だと説明しています。オンドルの床や壁に吹き出るのは、地下や木樋から漏れ出た温泉の蒸気が結晶化した「湯花」だといいます。

大浴場には、後生掛伝統の「箱蒸し風呂」(木箱から首だけ出して天然の蒸気に温まる)、泥湯、火山風呂、天然蒸気の蒸気サウナ、打たせ湯、露天風呂など「七つの湯」があり、全浴槽が源泉かけ流し(温度調節のための加水のみ)と公式サイトは書いています。市史も、木箱から首だけ出して温まる蒸し風呂や泥湯、湯滝、火山風呂のある施設と、オンドル宿舎が設けられていることを記しています。

湯治部については、公式サイトの2026年7月13日付のお知らせに、宿泊者数の大幅な減少、一部施設の老朽化、人員不足などの影響から「期間限定・不定期」の営業になっていると書かれています。2026年は9月と11月の営業予定で、予約は2泊以上、食事は自炊のみ、帰りには自分が使った客室の清掃をする、という条件が示されています。営業しているのは鈴らん寮(1階がオンドル個室、2階が畳個室)で、白樺寮は電気設備の老朽化により廃寮になったとのことです。

後生掛温泉の脇には、噴気孔や紺屋地獄、大湯沼などを間近に見る「後生掛自然研究路」があります。鹿角市の公式観光サイトによれば、すべて舗装路で所要時間は約50分、冬季は閉鎖されます(2025年度は11月6日で閉鎖)。

乳頭温泉郷の宿と水

鶴の湯の本陣と茅葺き

鶴の湯温泉の公式サイトによれば、鶴の湯は乳頭山(1478メートル)の麓にある乳頭温泉郷の八軒のうちの一軒で、温泉郷の中でも最も古くからある温泉宿です。茅葺きの本陣は数十年ごとに葺き替えをし、生保内下高野地区からススキを刈って一冬越してから、神代梅沢地区の「茅手」と呼ばれる職人が昔ながらの作業をするといいます。

鶴の湯の半径50メートル以内には泉質の異なる4つの源泉が湧き、それぞれ白湯・黒湯・中の湯・滝の湯と名づけられています。同じ敷地から泉質の異なる4つの温泉が湧く珍しい温泉場だと公式サイトは説明しています。鶴の湯事務所前の木の橋を渡ると温泉棟があり、日帰り入浴は大人700円(毎週月曜は風呂清掃のため休み)と案内されています。

鶴の湯の1.5キロメートル手前、先達川沿いには別館「山の宿」があります。乳頭温泉組合の公式サイトによれば、山の宿は平成6年に開業した木造の宿で、地元の雑木だけで建てた平屋の曲がり屋風建築は、豪雪に耐える太い梁が特徴です。この「曲がり屋」は、仙北地方の農村家屋の型です。杉浦直(1980)は、横手盆地北部とその周辺の仙北地方にL字形の民家「曲家(まがりや)」が残り、多くは岩手県の南部曲家の系統と考えられること、一方で玉川村などの北の縁には「中門造」の系統とみられる家があることを、古い家屋平面図と現地調査から示しました。濱定史ら(2007)は、仙北地方の山ぎわに分布する8棟の板倉「ミズイタクラ」を調べ、湧水の上に密に並べた柱で建て、火災・盗難・鼠を防ぎ、米の貯蔵のために通気を調節する仕組みが、湧水を利用した結果だと書いています。

ブナ林の中に建つ茅葺き大屋根の山の宿
鶴の湯温泉の別館「山の宿」(2022年10月)。乳頭温泉組合によれば平成6年開業の曲がり屋風の平屋で、杉浦(1980)は仙北地方の曲家を南部曲家の系統とみる(写真:掬茶/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

温泉郷の七軒と湯めぐり

乳頭温泉組合の公式サイトによれば、組合に加入しているのは鶴の湯・妙乃湯・蟹場・大釜・孫六・黒湯・休暇村の7軒で、宿泊客限定で販売される「湯めぐり帖」(2,500円)で7軒の湯に入ることができます。乳頭温泉郷は環境省の国民保養温泉地に指定されていると、同サイトは表示しています。

組合サイトの各宿の案内は、宿ごとの性格を短く伝えています。蟹場温泉は付近の沢に蟹が多く住むことから名づけられ、宿舎から50メートルほど離れた原生林の中に露天風呂があります。孫六温泉は湯治場の風情を残す「山の薬湯」と呼ばれる宿で、浴舎は宿舎から川に下りたところに離れてあります。大釜温泉は木造校舎を移築した宿で、組合サイトでは令和8年(2026年)1月1日から当面の間休止と案内されています。妙乃湯は軒先を先達川の渓流が流れ、休暇村乳頭温泉郷はブナ林に囲まれた温泉郷で最も近代的な施設です。

川沿いに並ぶ黒塗りの木造の湯宿
乳頭温泉郷の黒塗りの湯宿(孫六温泉・2025年10月)。組合サイトは「山の薬湯」と呼ばれる湯治場の風情を残す宿と紹介する(写真:lumoplank/Wikimedia Commons・CC0)

黒湯温泉は温泉郷の中で最も奥にあり、江戸時代からの歴史を持つ宿です。源泉地が宿の横にあって、温泉が噴き出す様子を見ることができると組合サイトは紹介しています。営業は4月中旬から11月までで、冬は閉まります。1912年の『仙北郡案内』は、生保内村の温泉として「黒湯あり、数棟の客室を設け、湯主は諸種の飲食物を供給し」と記しており、宿の形は百年以上前からあったことが分かります。

山の食と正月の舞――暮らしの民俗

マタギときりたんぽ

鹿角市史が蒸ノ湯の発見者として挙げる「マタギ」は、この山々の狩猟民です。田口洋美(2004)は、日本の社会と文化が農耕を基盤に発展してきたとされ狩猟は副次的な文化と見なされてきたが、農耕と狩猟は一見無関係に見えて強く結びつき、互いに補い合ってきたと論じています。田口によれば、マタギは半職業的な狩猟者として、農地を荒らす野生動物を排除する役割を担い、その狩猟はしだいに市場向けになっていきました。

鹿角は、きりたんぽの土地としても知られています。荒谷由季子(2023)は、江戸後期から現代までの県北部の日記や新聞を時代順に整理し、「きりたんぽ」が100年以上途切れることなく続いてきた料理であること、名前の由来となった「たんぽ槍」は明治40年には広く知られていたことを確かめました。その一方で、いま主流になっている「マタギ発祥説」と「冷飯・残飯説」は根拠が薄く否定せざるを得ない、というのが荒谷の結論です。日本調理科学会の秋田県の調査(駒場千佳子ら、2021)は、鹿角・仙北を含む県内8地域で昭和35〜45年ごろに調理を担っていた19人に聞き書きし、「きりたんぽ鍋」や「だまこ鍋」が米どころを象徴して年末年始のほか新米の収穫時期にも振る舞われ、主食と主菜、副菜が汁物で完結すると書いています。同じ調査団の副菜の報告(髙橋徹ら、2019)は、漬物が副菜の約3分の1を占め、山菜やきのこの料理として「ぜんまいの一本煮」「カタクリの花のクルミ和え」「ばっけみそ」「なめこと大根おろしの酢の物」を挙げ、主菜の報告(髙山裕子ら、2018)は、大きなホタテの殻を鍋の代わりに使う「かやき」や、うさぎ・くじらの煮つけが県内全域で供されたと書いています。湯治客が「近くの山に登って山菜やきのこを採った」という市史の記述は、こうした山の食に重なります。

土鍋に入ったきりたんぽ鍋
きりたんぽ鍋(他地域の参考写真)。荒谷(2023)はきりたんぽが100年以上続く料理だと文献から確かめ、駒場ら(2021)は年末年始や新米の時期に振る舞われると書く(写真:Chensiyuan/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

正月二日の大日堂舞楽

後生掛温泉のある鹿角市八幡平には、正月二日に演じられる舞楽があります。文化庁の文化遺産オンラインによれば、「大日堂舞楽(だいにちどうぶがく)」は鹿角市八幡平の大日堂で正月二日に演じられる古風な舞楽・田楽などの芸能で、「大日堂祭堂」ともいい、大里・谷内・小豆沢・長嶺の四つの集落の「能衆(のうしゅう)」と呼ばれる人びとによって、堂内の置舞台の上で各集落に伝わる多くの舞が舞われます。演目には「神子舞」「神名手舞」「権現舞」「駒舞」などがあり、昭和51年(1976)5月4日に国の重要無形民俗文化財に指定されました(保護団体は大日堂舞楽保存会)。秋田県の指定一覧によれば、所在は鹿角市八幡平字小豆沢で、国指定に先立つ昭和45年(1970)6月8日に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されています。

大日堂舞楽が演じられる大日霊貴神社の社殿
大日堂舞楽が演じられる大日霊貴(おおひるめむち)神社の社殿(鹿角市八幡平小豆沢・2021年7月)。文化遺産オンラインによれば、正月二日に四つの集落の能衆が堂内の置舞台で舞う(写真:掬茶/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

田沢湖のたつこ姫

乳頭温泉郷の麓の田沢湖は、仙北市の観光情報が「ルリ色の湖面とたつこ姫伝説に彩られる」と紹介する湖で、周囲約20キロメートルのほぼ円形、水深423.4メートルで日本一の深さを誇ります。市の田沢湖エリアの観光スポット一覧には、御座石神社(冬期間は閉所時間が変動)、たつこ像、たつこ観音、姫観音、生保内公園、田沢湖クニマス未来館などが載っています。

湖畔に建つ御座石神社の朱の鳥居と田沢湖
田沢湖畔の御座石神社の鳥居(2020年8月)。仙北市の観光情報は田沢湖を「ルリ色の湖面とたつこ姫伝説に彩られる」湖と紹介する(写真:掬茶/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

数字で見る変化

明治・大正の戸数と人口

『仙北郡案内』(1912年)には、生保内村が戸数395戸・人口2,477人、田沢村が戸数189戸・人口1,172人と記されています。鶴の湯と蟹の湯は田沢村、黒湯は生保内村の温泉でした。この数字は大正元年の郡誌の記載で、国勢調査とは集計の出どころが違います。

国勢調査で見る仙北市

仙北市は平成17年(2005年)9月20日に、田沢湖町・角館町・西木村の2町1村が合併して生まれた市です。市の過疎地域持続的発展市町村計画(令和8〜12年度)に載る国勢調査の数字では、市域の総人口は昭和55年(1980年)の39,098人から、平成2年36,297人、平成17年31,868人、平成27年27,523人、令和2年(2020年)24,610人と減り、65歳以上の割合は11.2%から42.8%に上がっています。乳頭温泉郷のある旧田沢湖町だけの数字は、この計画には載っていません。

秋田県の中で乳頭温泉郷の鶴の湯と後生掛温泉がある位置を示した地図
秋田県の中の乳頭温泉郷(鶴の湯)と後生掛温泉の位置(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」、国土交通省「国土数値情報(行政区域)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

温泉の供給数と湯治部

仙北市は市の温泉事業として、乳頭・田沢湖高原・水沢地区の旅館などに温泉を供給しています。市の温泉事業経営戦略(概要版)によれば、温泉供給数は平成10年度の74戸・218口をピークに、令和6年度には42戸・132口まで減りました。事業開始時は市所有のカラ吹き源泉で造成した温泉水を全地区に供給していましたが、現在は造成量の減退により、別源泉の温泉水を購入して田沢湖高原・水沢地区へ供給しているとのことです。

湯治客の数については、市史の時代の数字と現在を同じ物差しで比べることはできません。明治の末に蒸ノ湯に三百人の湯治客が集まり、昭和の初めに毎年三〜四百人が常連として通ったという市史の記述、1977年に玉川温泉を年間約7万人が利用したという萱場(1979)の記述に対し、後生掛温泉の湯治部は2026年、宿泊者数の大幅な減少を理由に期間限定の営業になっています。数字の出どころが違うため、ここでは三つの事実を並べるにとどめます。

この地域の水

温泉という水

この地域の暮らしの中の水は、まず温泉そのものです。鶴の湯では半径50メートル以内に白湯・黒湯・中の湯・滝の湯の4つの源泉が湧き、公式サイトはそれぞれ含硫黄ナトリウム・カルシウム塩化物・炭酸水素泉、含硫黄ナトリウム塩化物・炭酸水素泉、ナトリウム塩化物・炭酸水素泉、含重曹・食塩硫化水素泉という泉質を掲げています。乳頭温泉組合のサイトでは、黒湯は単純硫化水素泉・酸性硫黄泉とされています。

後生掛温泉の公式サイトによれば、源泉「オナメ・モトメの湯」は単純硫黄泉(低張性・弱酸性・高温泉)で、泉温は93.4℃、pHは3.01、湧出量は自然湧出のため不明です。市史が記すように、後生掛には硫黄分を含んだ蒸気を噴き出す熱泉が二つ並び、周辺には泥火山や大湯沼があります。鹿角の温泉では、湯坪から直接引湯して居間や応接間の床下を温める床暖房が大湯や八幡平の各温泉地に見られたこと、大正時代から昭和10年ごろまで温泉熱を使った温室栽培が試みられたこと、上トロコでは地熱熱水を使った施設園芸が行われていることも、市史に書かれています。

乳頭温泉郷の鶴の湯・休暇村乳頭温泉郷・黒湯と、先達川や周囲の沢の位置関係を示した地図
乳頭温泉郷の鶴の湯・黒湯と先達川の位置関係(出典:国土地理院「地理院タイル(淡色地図・陰影起伏図)」を加工して作成/図:水のソムリエ編集部作成)

先達川から玉川、雄物川へ

国土地理院の地図を開くと、鶴の湯の脇を流れる沢は先達川に注ぎ、先達川は田沢の集落の近くで玉川に合流します。『仙北郡案内』は、玉川が田沢村の東北にある大深岳付近に源を発し、小和瀬川・先達川の二大支流を容れて生保内に入ること、そして角館の南西で鰍瀬川(桧木内川)を容れ、神宮寺・花館の間で雄物川に入ることを記しています。

先達川そのものを調べた報告もあります。秋田県健康環境センターの珍田尚俊(2006)によれば、先達川は田沢湖の北東に位置する流路延長7.5キロメートルの中性河川で、上流部に乳頭温泉郷、中流部東側に水沢温泉郷や田沢湖高原温泉郷があり、1943年からは先達川の水も田沢湖に導かれて、酸性化した湖水を中和する役割を担っています。珍田が2004〜2005年に行った水質調査では、温泉排水や降雨時の懸濁物による先達川の重金属濃度の上昇はほとんど見られず、駒ヶ岳を源とする酸性の支流の影響で硫酸イオンやカルシウムなどの濃度が高い傾向があった、と報告されています。

緑の山あいを流れる玉川の青い流れ
広久内橋から見た玉川の上流(2021年6月)。『仙北郡案内』は玉川が小和瀬川・先達川を容れて生保内に入り、雄物川に注ぐと記す(写真:掬茶/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

玉川毒水と田沢湖の百年

同じ郡誌は、玉川の上流に「渋黒の湯(一名酸湯と称す)」があって硫質酸性の温泉を流出するため、魚介がいなくなり、沿岸の稲田がその害を被ることが少なくないとも書いています。この「玉川毒水」との付き合いは、江戸時代にさかのぼります。中川実・酒井不二彦(1996)は、江戸時代後期に秋田藩の商人・田口幸右衛門が、化学の知識も資金の支援もないまま、川沿いの農業を増やすために毒水の除害に取り組んだことを土木史の側から評価しています。溝口三郎(1938)も、毒水の除害は天保年間(1830年代)から約百年にわたって多くの記録が残るが、名案は見つかっていなかったと書いています。

近代の対策は三段階でした。吉田稔ら(1977)によれば、第一が「地下溶透処理」で、源泉の熱湯の一部を約1キロメートルの導水路で導き、山腹のボーリング孔に注入して地下に浸透させ、岩石や土壌と反応させて酸を中和する方法です。昭和3年(1928)から一部着工し、昭和12年(1937)に本格化しました。三浦彦次郎(1939)は、この方法で pH1.1の原泉が地下注入後に渋黒川岸に漏出するときには pH2.8になっており、遊離酸の大部分が除去されたと報告しています。第二が昭和48年(1973)以来の石灰岩による簡易中和で、年間3,000トンの石灰岩が投入されました。第三が、昭和15年(1940)に始まった田沢湖への導入です。

雪の谷に建つ玉川酸性水中和処理施設
雪の谷の中の玉川酸性水中和処理施設(2014年12月)。知北ら(2022)によれば1991年の稼働で田沢湖の pH は4.2から5.2に上がった(写真:くろふね/Wikimedia Commons・CC BY 3.0)

田沢湖への導入は、発電と開墾のための計画でした。溝口三郎(1938)は、田沢湖の面積26.4平方キロ、水面標高250メートル、最大水深425メートルという数字を挙げ、田沢湖と玉川の水を調節して7万3000キロワットの水力発電と約2,500町の開墾を行う「田沢湖疏水計画」を説明しています。吉村信吉(1942)は、昭和15年に完成した工事で、玉川の水が田沢湖の上流の葭田から隧道で湖に注ぎ、湖の東南端から隧道で生保内の発電所へ導かれたこと、湖の水位が従来の0.7メートル程度の変化に代わって最大15メートル近く下がる可能性があることを記し、昭和15年5月28日に湖に流入する毒水を17か所で観測しました。吉村によれば、当時の玉川からの取水量は毎秒30立方メートルで、ほとんど玉川の全水量でした。

玉川毒水の除害と田沢湖の変化を年ごとに並べた年表
玉川毒水と田沢湖の百年。溝口(1938)、齋藤(1927)、吉田ら(1977)、三浦(1939)、珍田(2006)、知北ら(2022)、片村ら(2024)、中坊(2011)の記述から、除害の試みと田沢湖の変化を年表にしたもの(図:水のソムリエ編集部作成)

その結果は、よく知られています。仙北市の過疎地域持続的発展市町村計画は、昭和15年に電源開発と農地開拓のため玉川の強酸性水が導入され、固有種のクニマスなどが死滅したと書いています。知北和久ら(2022)によれば、導入で湖水のpHは6.7から4.2に低下し、1991年に玉川温泉の下流に中和処理施設が建設されてpHは4.2から5.2に上がり、現在に至ります。片村新ら(2024)は2015〜2017年の調査で、中和処理施設の稼働前の1989年に4.6〜4.7だった湖水のpHが2016〜2017年には5.0〜5.3になったこと、石灰石による中和で田沢湖に入る玉川の水のカルシウム濃度が高くなり、それが深層から浅層まで上昇していることから、湖水の鉛直混合が起きていると論じています。若狭幸ら(2015)は、中和処理施設の排水と渋黒川の水が1対1、渋黒川と玉川が合流点で3対7から4対6の割合で混ざり、下流の戸瀬では排水の寄与が約1割になると、同位体比から見積もっています。

クニマスについては、中坊徹次(2011)が、田沢湖に固有のこの魚が第二次世界大戦の直前に絶滅したと信じられていたが、1935年に発眼卵が移された山梨県の西湖で2010年3月と4月に発見されたことを報告し、水深150〜270メートル(水温3.8〜4.2℃)に通常生息し、深い水温の低い場所で産卵するという、サケ属の中で特異な生態を記しています。仙北市の計画は、現在は中和処理によってウグイなどの魚影が見られるようになり、西湖でのクニマス発見を契機に田沢湖再生の取り組みが進められていると書いています。玉川温泉の北投石は、大正11年(1922年)に指定された特別天然記念物で、文化遺産オンラインは「温泉の流れる玉川上流の河底に厚き皮殻を成」すものと説明しています。南英一(1954)は、北投石の調査が大正15年(1926)9月に内務省の嘱託として行われたのが最初だと書いています。

紅葉の木越しに見る青い田沢湖と秋田駒ヶ岳
潟前山森林公園から見た田沢湖と秋田駒ヶ岳(2022年10月)。片村ら(2024)は中和処理後の湖水の pH を5.0〜5.3と測り、鉛直混合が起きていると論じた(写真:掬茶/Wikimedia Commons・CC BY-SA 4.0)

玉川の水を貯める玉川ダムは、鎌田俊治(1987)によれば、貧配合の超硬練りコンクリートを汎用機械で大量に打設するRCD工法を用いた大規模ダムとして初めて施工されたダムです。

飲み水の現在

仙北市の水道事業基本計画によれば、市の既存水源の種別は表流水・地下水・湧水で、平成29年3月に上水道2事業と簡易水道13事業を統合して現在の仙北市水道事業が創設されました。生保内地区には昭和53年竣工の生保内浄水場(緩速ろ過)があり、田沢地区の田沢水道施設は前郷沢と大八木沢の湧水を水源にしています。計画の施設一覧には、組合営の「先達簡易水道」や「玉川温泉専用水道」も載っています。

市の水道事業経営戦略(令和8〜17年度)では、計画給水人口は16,557人、現在給水人口は15,113人です。過疎地域持続的発展市町村計画に載る市の水道普及率は令和2年度末で64.7%で、山あいの集落や温泉地の多い市の事情がうかがえます。ただし、乳頭温泉郷や後生掛温泉の各宿がどの水道から飲み水を得ているかは、公開資料では確かめられませんでした。鹿角市の水道については、八幡平地区の水源を示す公表資料を見つけられず、未確認です。

行く・買う

出典

一次資料(政府機関・公的機関の公表資料、自治体史、研究論文、施設の公式サイト)。リンクの到達性は2026年10月13日に確認しました。J-STAGE の論文は、抄録を読めたものは抄録、読めないものは記事の1ページ目(J-STAGE が公開している画像)によります。

画像クレジット